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「空のF1」の頂点を目指す室屋義秀 何度心折れても戻ってきた理由

Breakthrough 突破する力
曲技飛行の世界大会で主流機になっている競技専用機のEXTRA330SCとともに。垂直尾翼の「義」のロゴが室屋のトレードマーク=福島市 Photo: Semba Satoru

 新幹線を超えるスピードで、1000分の1秒を競う

軽快なエンジン音を響かせながら、小型プロペラ機が青空を猛スピードで突き進んでくる。

東日本大震災で津波に襲われた福島県相馬市の松川浦漁港で3月末に開かれたイベント。室屋義秀(45)は銀色の愛機を操り、高度1000メートル上空から地上数十メートルまで垂直上昇、急降下を繰り返した。乱気流をものともせず白いスモークで空にハートを描くと、観客から大歓声がわいた。

室屋は「空のF1」とも呼ばれる「レッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップ」に参戦するエアレース・パイロットだ。F12倍近い重力加速度に耐えながら、時速370キロで障害物を通過し「1000分の1秒」を競う世界。アジア人として初めて参戦し、昨年、初の年間総合優勝を遂げた。本来ならスロットルを操って速度を加減する左手を、右手とともに操縦桿(かん)に置く独特の姿は、刀を構える武士になぞらえて「サムライ・スタイル」と称される。スピードを全開に固定し、両手で機体を操って最速のコースを飛ぶ。室屋にしかできない精密な操縦法だ。

パイロットになる夢を抱いたのは、アニメ『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイに憧れた小学生のころ。当時、パイロットは野球選手と並ぶ子どもの人気職業。室屋は「勉強も運動も平均でど真ん中。夢もありきたりだった」と自嘲する。

転勤族の会社員の家庭で育った「普通の少年」が多くの少年と違ったのは、夢を忘れなかったことだ。自転車に羽根を付けて空を飛ぼうと試み、図書館でパイロットになる方法を調べた。中央大学では航空部へ入部。大学2年の春休み、アルバイトでためた100万円を手に渡米し、飛行機免許を取得した。

レーシングスーツの背中には「義」の文字が Photo: Semba Satoru

だが、空軍出身者や10代から自家用飛行機に乗るような環境からエリートが育つ欧米とは違い、日本では日常的に飛行機を操縦する人は一握りで、エアレース・パイロットへの道筋は、ないに等しい。大学卒業の頃は就職氷河期で、大手航空会社のパイロットの採用枠も少なく、空への道はほぼ閉ざされていた。

悶々(もんもん)としていた室屋の運命を変えたのが、1995年に兵庫県の但馬空港で開かれたエアロバティックス(曲技飛行)の国際大会「ブライトリング・ワールドカップ」だった。初の日本開催で話題を呼んだ大会を見に行き、強烈な衝撃を受けた。飛行の理論は学んだはずなのに、操縦方法がわからない。「この技術を極めたい」。漠然とした空への夢が「操縦技術世界一」という目標に変わった。卒業後は「腕利きの教官」と評判のランディ・ガニエに師事すべく、カリフォルニアに渡った。

世界へ導いてくれた師の急死

「おまえは世界チャンピオンになれる」。練習を始めて間もなく、ガニエは室屋にこう声をかけた。まだ基本を覚えたばかりなのに何が分かるのか。だが、室屋は「本気で言っている」と信じた。「熱意があれば、先は見えると教えてくれた。それを心の糧にしてきた」。練習を続け、1年も経たない977月の世界選手権に日本代表として出場。予選通過を果たした。師に導かれて世界の頂点へ一歩を踏み出した、と感じていた。

ところが、一度帰国してアルバイトに励んでいたさなか、ガニエが飛行中の事故で急逝する。「飛行機で人が本当に死ぬことが受け入れられなかった」。恐怖と悲しみ。就職した友人らから取り残される感覚。「人はそのうち死ぬ。なら、挑戦する方が面白い」。そう思って再び飛び始めるまでに2年かかった。

愛機とともに、福島市で Photo: Semba Satoru

99年、東京から福島市に移り住んだ。農産物の空輸などを目的に整備された空港「ふくしまスカイパーク」を拠点に、自家用機のオーナーの機体の管理や操縦を手伝って飛ぶ機会を確保したかったからだ。エアショーや広告事業の会社も起こした。知り合った自家用飛行機のオーナーらに頼み込み、総額3000万円を工面。ロシア製の一人乗り曲技飛行専用機「スホーイ」も手に入れた。だが、2003年に出場した曲技飛行の世界選手権で惨敗。ナショナルチームの一員として訓練を積む海外のパイロットたちに「目指す場所の遠さ」を思い知らされた。「資金もない、練習もできない、コーチもいない。勝てる見込みが全くない」。ビジネスに集中して生きようと気持ちが傾いた。

結婚祝いのサプライズ

初心に返らせてくれたのは、マーケティング会社を経営する芦田博(50)だった。子どもの頃からパイロットに憧れていた芦田は、仕事で知り合った室屋と意気投合し、エアショーの売り込みなどを手伝っていた。05年に室屋が結婚するとき贈ったのが、1本の映像だった。室屋の空への思いを物語に仕立て、「できるかできないかを決めるのは自分だけ」というメッセージを込めた。思いを受け止めた室屋は、再びトレーニングに励み始める。芦田は言う。「彼の才能は技術ではなくて、憧れの強さだ」

福島市のトークイベントでサイン会。ファンとの交流を楽しむ Photo: Semba Satoru

日本では未開催だったレッドブル・エアレースのデモイベントの運営を室屋の会社が任されたのは、その翌年のことだ。運営の傍らパイロットとしてエアショーに参加したフライトが目にとまり、将来のレースパイロット候補として推薦された。08年にはパイロット養成キャンプに参加。整った環境で育ってきた同期の若い候補生たちを前に「途中から落ちこぼれていく感じ。こいつらには勝てねえよ」と劣等感を持った。しかし、コーチをつとめたフランス人のパトリック・パリスは全く違う目で見ていた。「ヨシほどの集中力と熱意で練習するパイロットは見たことがない。メンタルの準備も怠らない。偉大なチャンピオンになると分かっていた」

自分の知識や経験を子どもたちに伝えることも大切な仕事のひとつ=福島市Photo: Semba Satoru

支えられている実感を力に

ようやく夢への翼を手に入れた室屋を、またも困難が襲う。レッドブル・エアレースが安全対策を理由に11年に休止に。同じ年の3月には東日本大震災が起き、拠点のふくしまスカイパークが壊滅的打撃を受けた。原発事故の影響もあり、イベントのキャンセルが続いた。廃業も頭をよぎる中、支えてくれたのは、被災した福島の人たちだった。NPOふくしま飛行協会理事長・斎藤喜章(65)は市にかけ合って、短期間で滑走路の修復を実現させた。「夢を叶(かな)えるために努力する姿をずっと見てきた。このまま終わらせてはいけないという気持ちで動いた」

震災後まもなくイタリアで開かれた世界選手権に出発する前、仲間がサプライズで壮行会を開いてくれた。当時のブログに、室屋はつづっている。「コックピットでの戦いは孤独だと思い込んでいた 間違いを実感」。夢を追い始めた時は一匹狼(おおかみ)だったが、もがき続けた福島での年月が、支え合う仲間を育んでいた。

4年ぶりにレッドブル・エアレースが再開された14年、クロアチアであった第2戦で3位に入り、人生初の表彰台に。休止期間も続けてきた練習の成果が出始めていた。日本開催が始まった翌年の16年に第3戦・千葉大会で初優勝。そして、17年、シーズン最後に逆転で王座についた。王者として臨んだ今シーズン。527日に千葉で開かれた第3戦は、最初の垂直ターンで最大荷重の制限を超えてしまい、途中棄権した。それでも、総合3位で連覇を狙える位置につけている。「飛ぶことには心の底から熱中できる。だから、何があっても、もう一回やってみようと戻ってこられた」。目指す「操縦技術世界一」はまだ先。これからも、夢を追いかけていく。(文中敬称略)

Memo

飛行機1キロ四方の空間で宙返りなどの曲技をプログラムに組み立てて披露するエアロバティックスに対し、エアレースは地上15メートルほどの高さの狭いコースを全速力で飛ぶ。「フィギュアスケートの選手がスピードスケートに挑むようなもの」で、転向は簡単ではない。エアレースで乗る機体は1秒間に約100メートル進む。2014年シーズンからは各チーム共通のエンジンとプロペラの使用が義務づけられ、パイロットの技術がより重要になった。 

連覇した昨年6月の千葉大会でのフライト Photo: Nagashima Kazuhiro

ふくしまスカイパーク…農産物の空輸を目的に整備され、今は多目的の空港として使われている。室屋が2000年に設立した会社「パスファインダー」と、副理事長を務めるNPOふくしま飛行協会の事務所もここにある。今秋には「航空機展示場」の新築を、来春には小中学生を対象にした航空教室の開講を予定している。

拠点にしているふくしまスカイパーク。旅客機の航路に入っておらず曲技飛行の練習がしやすい=同パーク提供