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南の島にも「うつ」はある 課題は医療専門家不足

World Now 更新日: 公開日:
フィジーで行われた、WHOによるメンタルヘルス治療の研修。医療者役と患者役に分かれて学んだ

太平洋に浮かぶ人口88万のフィジー共和国。常夏の島で、「心の病」が社会問題になっている。

「自殺件数が前年のほぼ200%増に。地元警察が予測」(2012年11月)、「警察が新たに4件の自殺を確認。既遂39件、未遂48件に」(13年4月)──。地元メディアではここ数年、自殺問題が繰り返し取り上げられている。警察が把握するだけで、未遂もあわせ年間約200件の自殺がある。世界保健機関(WHO)が公表する自殺死亡率の世界平均は10万人あたり11.4人。既遂件数だけみればフィジーは平均だが、自殺の公式統計が存在せず、保健省は「警察の把握数より実態はかなり多いはずだ」という。

自殺と心の病は関係が深く、01年には政府や医療者、教育機関などが連携して「国家自殺予防委員会」を発足させた。委員会メンバーで心理士のセリーナ・クルレカは「南の島に心の病がないというのは誤ったイメージだ。より良い教育や仕事を求めて首都に出る人が増え、孤立を深めている」と話す。

しかし、治療を必要とする人を支える医療関係者は極端に少ない。精神科医は国内に5人。数年前まで、心の病はすべて、首都スバにある国内唯一の精神科病院で診ていた。

心の病は生活習慣病など他の病気とも影響しあい、途上国でも懸案になりつつある。WHOは08年から、専門医以外でも治療にあたれる人材を育てる研修を進める。約80の国で展開され、フィジーも昨秋、本格導入した。

昨年12月、スバであった研修をのぞいた。顔をそろえたのは地域の看護師や保健師、救命救急隊員ら13人。患者との会話の進め方や、症状に特徴的な傾向を見つけて専門医の治療につなげる手法を2日間にわたって学んだ。

「今日はどんな気分ですか?」

「最近、眠れないんです」

参加者が医療者役と患者役に分かれて短いやりとりを再現したあと、講師の看護師タバ・ソロバナラギ(33)が解説した。「相手の表情やしぐさなど言語以外にも注意を払いましょう」「相手と信頼関係を築くことが大事。症状の評価はそれからです」

WHOの推計では、一般的に人口の10%が軽・中度、3%が重度の心の病を抱えるとされる。フィジーの成人人口で計算すると、軽・中度で約6万人、重度で約1万8000人の患者がいることになるが、治療を受けたのは1900人(11年)。未受診の患者が多くいるとみて、政府はこの推計を手がかりに、治療を受けやすい環境作りなどに取り組んできた。10年に「メンタルヘルス法」を制定し、まず診療所を開き、3地域の総合病院にストレス管理病棟を設けた。専門の医師と看護師による訪問診療も始めた。フィジー国立大は3年前、メンタルヘルスの学位を新設し、周辺諸国からも学生を受け入れている。

医療の地域化には病気への偏見をなくす狙いもある。心の病は古くから悪霊や呪いがもたらすものと考えられ、患者や家族、精神科病院まで差別と偏見の対象だった。国家メンタルヘルスアドバイザーのジェイン・アンドリュース(34)は「偏見をなくせば精神科を訪れる心の負担が減り、症状が軽いうちに近くの病院に行きやすくなる」と話す。

フィジー国立大教授で精神科医のオディール・チャン(51)は政府やメディア、NGOと連携して市民への啓発に力を入れてきた。「精神科を訪れる人はキャンペーンで確実に増えた」

患者自身も立ち上がり始めた。自助団体「精神疾患サバイバー連合」は、患者が自ら闘病体験を語ることで社会に病気のことを知ってもらい、職場復帰につなげるプログラムを進める。代表のクレラ・タバタ(33)は10代の終わりに、片目の視力を失う病気をきっかけに生きる気力をなくし、引きこもった。その後、一度は就職したが、数カ月で入院し、仕事を失う。だが「仲間と出会って前向きになれた」。活動を通じて出会った男性と結婚。「心の病は特別な病気じゃない。不調を感じたらためらわず受診し、疲れたら休む。無理さえしなければ普通の人と変わらぬ生活ができる」

フィジーにあるWHO南太平洋事務所の専門官、瀬戸屋雄太郎は「当事者の声が小さい心の病は光が当たりにくいが、他の病気との関わりも深く、社会の損失は大きい。途上国には地域に支える力が残っているところも多い。地域で心の健康づくりに取り組む人材を育てることも有効だろう」と話した。

■心の病を公表 ストレス減へ企業も本腰

世界的な金融街、ロンドンのシティー。その一角にある大手会計事務所デロイトのオフィスを昨年末、訪ねた。前年まで共同経営者だったジョン・ビンズ(57)に会うためだ。

「うつなんて、私には関係ないことだと思っていた。それまで十数年、病気で休んだこともなかったからね」

ビンズはそう言って過去を振り返った。事務所トップの共同経営者に就いて6年目の2006年秋、彼は「重いうつ病」と診断され、3カ月間休職した。

今思えば、その2年ほど前から徐々にうつの症状が進んでいたという。ささいなことが不安でたまらなくなった。左腕のほくろが皮膚がんになるのではと気になり、医者にかかった。「ほくろは大丈夫。それよりうつではないか」と精神科の受診を勧められた。そんなはずはない、と働き続け、症状は悪化した。打ち合わせに誰を呼ぶか、簡単な決断も悩みすぎてできなくなり、部下に心配された。

06年秋のある夜、同僚の共同経営者3人にメールを書いた。「つらい。明日は休みます」。3、4時間悩んで送信ボタンを押した後、猛烈な不安に襲われた。いったん「弱い人間」とみなされれば、事務所でやっていけなくなる。自分のキャリアはもう終わりだ――。

精神科医を受診し、3週間入院した。自分には生きる価値がないと思えた。

そんな状態から、同僚の共同経営者の一人が救い出してくれた。休職から3カ月後、メールで「ランチでもどうだ」と誘われた。「待ってるから。戻ってこいよ」と言ってくれた。簡単な仕事から徐々に復帰し、半年後には元通り共同経営者の仕事をこなせるようになった。

「自分は終わりかと思っていたが、そうではなかった。心を病んだ人を切り捨てて新しい人を雇えばコストがかかる。休んだ人を支えるのは、ビジネスとしても素晴らしい判断だ」とビンズは強調する。

ジョン・ビンズ/photo:Sako Masanori

彼が救われたのは、ランチに誘ってくれた同僚のおかげだ。だが、心を病んだ人にどう接していいか分からず、避ける同僚も多かったという。彼自身、心の苦しみを誰にも相談できず、一人で抱え込んで症状を悪化させた。「心の病について気楽に話せない文化がある。それを変えたい」。13年に経営者を引退し、今はメンタルヘルス担当の顧問を務めるビンズはそう強調する。

心の病は本人を苦しめるだけでなく、経済にも影響する。そんな議論が06年、英国で起こった。経済学者で上院議員でもあるリチャード・レイヤードが「うつと不安障害による経済損失が年間120億ポンド(約2兆円)に上る」との報告書を公表した。政府は、3000人を超える心理士を新たに養成するなど対策に乗り出す。

09年には、政府も出資し支援団体が主導する「タイム・トゥ・チェンジ」(変わるときだ)というキャンペーンが発足。賛同する企業が相次いだ。

キャンペーンに加わった生活用品大手P&G。ロンドン郊外にある英国本社を訪ねた。出迎えてくれた人事部長のリチャード・セビルはこう強調した。「従業員のパフォーマンスを維持するために、心も体も健康であることが重要だ。そのためにはまず、心の健康についてオープンに語れる雰囲気を作りたい」

セビルによると昨年秋、社員食堂につながるガラス張りの廊下の壁面に縦80センチ、横60センチのポスター6枚を貼り出した。それぞれに大きな顔写真が印刷されていて、メッセージが添えられているという。たとえばこんな具合だ。

「15年前、私は不安障害を経験した。苦しかったが、その経験のおかげでより強い人間になることができた」

顔写真の主は、同社の幹部や従業員6人。そのうち4人は本人が過去に心の病に苦しみ、残りの2人は家族や同僚が患ったという人たちだ。人事部長のセビルは言う。「それぞれの職場で尊敬されている6人にお願いした。心の病は克服できる。だから率直に語ろう。そのメッセージを最もパワフルに伝えられるのは、同じ職場で働く顔見知りの同僚だ」

そのポスターを見せてほしいとお願いしたが、「外部の人には見せられない」と断られた。心の病を完全に「オープン」にするのは簡単ではないようだ。

心の病はドイツでも大きな問題になっている。健康保険組合によると、「バーンアウト(燃え尽き症候群)」による病気休暇が04年は組合員1000人あたり4.6日だったが、11年は86.9日に急増した。

自動車大手フォルクスワーゲンは11年末、労働組合との間で「メール停止労使協定」を結んだ。対象は事務職約1000人。夕方6時15分から朝7時まで、会社から貸与されているスマートフォンに電子メールが届かないようにした。

職場での健康づくりに取り組む労働健康研究所の所長、ディルク・ビンデムートは「ストレスを減らすために情報の量を制限することは有効だ」と評価する。

労働大臣、アンドレア・ナーレスも昨年8月、現地紙のインタビューに、労働者のストレスを取り除くことを企業に義務づける基本法「アンチ・ストレス法」の制定を目指す考えを表明、政府の研究機関に効果のある対策の検討を指示した。

大手会計事務所の共同経営者だったジョン・ビンズさんは重いうつ病を患った経験から、「私に限って」と心の病に向き合おうとしない人に警句を発している(撮影:左古将規、機材提供:BS朝日「いま世界は」)

■職場で脅かされる心の健康

心の健康が、職場を中心に脅かされている――。そんな危機感が世界に広がっている。

日本では1998年から14年連続で自殺者数が3万人を超え、過労自殺が社会問題になった。うつ病や躁うつ病と診断された人は2008年に100万人を突破。ほぼ10年で2倍以上に増えた。

欧米でも職場のストレスが深刻だ。08~09年、仏通信大手フランス・テレコムで従業員30人以上が自殺したと報道され話題になった。ドイツでは11年、「バーンアウト(燃え尽き症候群)」が流行語になった。

産業医として30年以上のキャリアがある英通信大手ブリティッシュ・テレコムの主任医務官、ポール・リッチフィールドは「30年前、職場の健康問題といえば、アスベストや騒音や振動による影響だった。今、働き方はガラリと変わった。09年以降の欧州経済危機の影響で、心理的なプレッシャーは厳しさを増している。欧州の企業にとって最大の健康問題はメンタルヘルスだ」と指摘する。

仕事のストレスが一因となりうる代表的な心の病が、うつ病だ。

気分が落ち込み、何をしても楽しくなくなり、夜も眠れず、死にたくなる人もいる。そんなうつ病が2030年には、世界の人々の健康を害する最大の病気になる、と世界保健機関(WHO)は予測する。

■予防も治療も手探り

10~20代で発症することの多い統合失調症と異なり、うつ病は働き盛りの中高年もなりやすい。経済への影響も深刻だ。

うつ病などで仕事を辞めれば、国が失業給付や障害給付を支払う。経済協力開発機構(OECD)によると、障害給付の支出額のうち心の病の患者の分が占める割合は09年にデンマークで44.2%、08年にスウェーデンで41.2%に上り、90年代半ばからほぼ倍増した。医療費に占める心の病の割合もフランスで6.6%(98年)から13.5%(02年)に、ドイツで4.8%(02年)から17.4%(06年)に増えた。

心の問題が原因で、欠勤したり、出勤できたとしても十分に能力を発揮できなかったりすることもある。そんな人たちの数は、重い症状の心の病で職場を離れる人よりもさらに多く、障害給付や医療費などの直接的な支出以上に大きな経済損失とも言われる。

ただ、心の病については、原因や仕組みに不明な点も多く、「病気」と「健康」の線引きが難しい。予防も治療も手探りの状態が続いている。