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わたしはうつ? 健康と病気、この微妙な境界線

World Now 更新日: 公開日:

どこまでが「健康」で、どこからが「病気」なのか──。2010年、「心の病」の新しい診断基準をめぐって、米国で激しい論争が起きた。

きっかけは、米国精神医学会がまとめた診断手引「精神疾患の診断・統計マニュアル第5版(DSM-5)」の草案だ。論争に火を付けたのは、同じ手引の第4版「DSM-4」の作成委員長で、精神科医のアレン・フランセスだった。

フランセスは著書『〈正常〉を救え』の中で、最新版の手引づくりに携わっていた精神科医らと学会のパーティー会場で議論したエピソードを紹介している。彼は、最新版の手引を使えば、自分も病気にされてしまうと主張した。

「私がおいしいエビや肉をたらふく食べるのは『むちゃ食い障害』、人の名前や顔を忘れるのは『軽度神経認知障害』、孫のかんしゃくは『重篤な気分調節不全障害』の症状だ」

論争は国内外に広がった。英国心理学会も「主観的な判断に頼っている」「医学の基準を満たしていない」などと批判する文書を公表。草案の見直しを求める請願には、1万5000以上の署名が集まった。

現代の「心の病」の分類の基礎は、19世紀にできた。ドイツの精神医学者エミール・クレペリン(1856~1926年)が、今で言う「統合失調症」と「躁うつ病」という2種類を区別した。当時、精神医学の対象になったのは、入院治療が必要なくらい症状の重い人たちだった。それが今や、心の病は世界中の誰にとっても身近な病になった。

■客観的に診断する仕組みなく

すそ野が広がったきっかけの一つが、1980年に発表された米国精神医学会の診断手引「DSM-3」だ。

この手引の特徴は、原則として病気の原因を問わず、チェックリストのように症状の特徴や重さだけを見て診断できることだ。たとえば、ほとんど一日中、ほとんど毎日、「気分の落ち込み」や「興味や喜びの喪失」など五つ以上の症状が2週間続けば、うつ病と診断される。

「それまでは上司に怒られたり失恋したりして落ち込んだ場合、うつ病と診断されないことが多かった。落ち込んだ原因を問わず、症状だけで診断するようになり、かなり広い範囲がうつ病と呼ばれるようになった」と、医療人類学者で慶応大准教授の北中淳子は指摘する。

DSM-3は、かつては医師によって診断にバラツキがあった心の病を同じ基準で客観的に診断できたため、国際的な手引として世界に広まった。その後、94年にまとめられたDSM-4も、10年に草案が発表された最新版のDSM-5も、同じ考え方を引き継いだ。

DSM-4の作成に関わった国立精神・神経医療研究センター認知行動療法センター長、大野裕はこう解説する。「本来であれば、DSM-3をベースに、脳波や脳画像、血液といった、目に見えるもので客観的に診断する仕組みが必要だった。だが残念だが、80年以降、そういった研究に大きな進展はなかった」

最新版のDSM-5は論争の末、一部修正されたものの大枠は変わることなく13年5月に完成した。作成委員長のデービッド・クッファーはこんな声明文を出した。「遺伝学、神経科学の革命的な進展がいつかはあるかもしれない。でも、いつ実現するか分からない約束手形を患者に渡すだけでいいのか。この手引は心の病を分類するために、いま手に入る最強のシステムだ」

心の病の増加と並行して、薬の市場も急拡大している。

世界の医薬品市場を調べている調査会社・総合企画センター大阪によると、抗うつ薬の2014年度の市場規模は日本、米国、欧州で合わせて約5600億円。巨大な市場が生まれた背景には、1980~90年代に登場した新世代の薬が果たした役割が大きい。

米国のイーライリリー社が88年に発売した抗うつ薬「プロザック」は、「従来の薬に比べて副作用が少ない」と強調され、世界的にヒットした。同じタイプの薬が日本でも99年に登場し、広く普及した。

日本で最大のシェアを獲得した英国系のグラクソ・スミスクライン(GSK)を始め、新しいタイプの抗うつ薬を日本に導入した製薬大手は、うつの啓発キャンペーンを積極的に展開した。うつを経験した著名人らを広告に起用し、うつは誰でもなりうるが、休養と薬で治る、というメッセージを繰り返し伝えた。GSKの広報担当者は「うつ病の正しい理解と偏見の払拭(ふっしょく)を目指し啓発してきた」という。

精神科の薬に詳しい杏林大教授の田島治は指摘する。「病気の啓発は、困っている人が気楽に病院に行けるようになるというプラス面がある。一方で、人生の悩みからくる不安や落ち込みまでが病気と診断され、薬で治療されるようになった。本来は薬で治すべき状態でないので薬が効かず、別の薬も試されて、どんどん薬が増えていくというケースも出てきた」

マーケティング会社・富士経済によると、抗うつ薬の日本国内での市場規模は、98年の173億円から13年には1176億円と7倍になった。

米国ではさらに抗うつ薬が身近だ。90年代に米国に留学していた九州大大学院教授で精神科医の黒木俊秀は「恋愛で悩んで不登校になった高校生にも抗うつ薬が処方されていて驚いた」と話す。厚生労働省の研究によると、米国で抗うつ薬を処方された人は96年の人口の5.8%から05年には10.1%まで増えた。

ただ、抗うつ薬ビジネスは曲がり角を迎えている。80~90年代に登場した抗うつ薬は10年たって次々と特許が切れ、次世代の有力な薬も見つかっていない。新薬開発をリードしてきた製薬大手にとって、以前のような巨額の収入は見込めなくなった。GSKは10年、うつ病の新薬開発から撤退を表明。抗うつ薬の米国での市場規模は11年度の約5400億円から14年度には半減すると見込まれている。

■宇宙ステーションという閉鎖空間 心の健康を保つコツ

外出はできず、仕事も食事も睡眠も同じ建物内ですませる。顔をあわせるのは同僚5人だけで、会話はすべて外国語。職場以外の友人とスポーツやカラオケで発散もできない。そんな生活が長期間、続く……。

こんな「閉鎖環境」で仕事をするのが、米ロと欧州、カナダ、そして日本がつくった国際宇宙ステーション(ISS)に搭乗する宇宙飛行士たち。

「宇宙放射線が多いうえに、人間関係が固定化し、ストレス解消手段が少ない。産業医学的には究極の有害職場といえるかもしれません」。筑波大学で産業精神医学・宇宙医学グループを率いる教授、松崎一葉(いちよう、54)はいう。多くの企業の産業医として活動すると同時に、宇宙飛行士たちのメンタルヘルスの研究を進めてきた。

宇宙航空研究開発機構(JAXA)が、宇宙ステーションで長期滞在することを念頭に、宇宙飛行士の選抜を始めたのが、1999年に古川聡、星出彰彦、山崎直子を選んだ時からだ。

最終試験に残った8人(2009年の選抜では10人)を、大型バス2台ほどの大きさの「閉鎖環境適応訓練設備」に入れて、外界と遮断。1週間共同生活をしながら、様々な課題をこなす様子を、5台のカメラで観察する。「重視したのは、多文化環境に柔軟に対応し、自分が要求されている役割を把握する資質」と、松崎らとともに試験を企画した有人宇宙ミッション本部の井上夏彦(46)。

JAXAの閉鎖環境適応訓練設備/photo:Hamada Yotaro

こうして選んだ人材を宇宙に送り込んだ後は継続的な支援が大切になる。宇宙ステーションに日本人宇宙飛行士が乗っている時には、2週間に一度、精神・心理の専門家によるカウンセリングをテレビ電話で地上から行う。気分や睡眠の状態をチェックしつつ、気軽な雑談をしながら気晴らしの方法を相談し、後から録画したテレビ番組を送ったりもする。

宇宙ステーションにおける協調性を重視した選抜や、手厚い心の支援は、いつの時代も同じだったわけではなく、過去の「失敗」の教訓が生かされている。

90年代に米ロの間で行われたシャトル・ミール計画では、地上管制官の無理解から長時間労働を強いられたり、協調性に難ありの人材が送り込まれて人間関係が悪化したりして、うつ状態に陥った宇宙飛行士が複数出たという。その過酷な状況は、『ドラゴンフライ ミール宇宙ステーション・悪夢の真実』(ブライアン・バロウ著)に詳しい。

日本の宇宙開発事業団(JAXAの前身)も参加して99~2000年に実施されたロシアの閉鎖施設での実験では、被験者同士の殴り合いや、セクハラ事件が勃発。当事者ではないものの、強いストレスを感じた日本人被験者が110日間の予定を切り上げ60日で退出するという予想外の事態が発生した。

「宇宙ステーションでの暮らしも、普通の生活と同じ人間くさいところがある」と話すのは、宇宙飛行士の山崎直子(44)。著書『何とかなるさ!』の中で、介護施設で暮らす親戚を見て抱いた感慨をこう書いている。足腰が不自由で移動や外出もままならず、周囲の入居者やスタッフも基本は同じ顔ぶれ。様々な配慮はされていても、これは「閉鎖環境での生活」ではないか……。

宇宙ステーションでのストレスの管理やメンタルヘルスケアの研究成果は「介護施設など地球上での『閉鎖環境』で暮らす人々に役立つ部分がきっとある」と山崎はいう。

(撮影:浜田陽太郎、機材提供:BS朝日「いま世界は」)

■診断も治療も手探り状態

2013年10月、英国の上院議会。議員のリチャード・レイヤードが訴えた。「600万人の大人がうつ病など心の病に苦しんでいる。心理療法の待ち時間をせめて28日以内にするべきだ」

うつ病の治療法には主に、薬による治療と、カウンセリングなどを使う心理療法がある。薬は、軽症だと効かない人もいて、副作用も心配される。そこで、薬以外の心理療法が注目を集めている。

英国の国立医療技術評価機構(NICE)が09年にまとめた治療指針では、症状の軽いうつ病に対し、薬ではなく心理療法などを第1の選択肢に挙げた。英国では08年以降、3000人を超す心理士を育て、患者が無料で心理療法を受けられる仕組みを整えた。

だが、現実は厳しい。メンタルヘルス支援団体「マインド」が12~13年に患者1600人を調べたところ、心理療法の待ち時間は大半で3カ月以上に上り、10人に1人は1年以上も待った。

日本うつ病学会が12年に公表した治療指針では、軽いうつ病への「安易な薬物療法」には問題があると指摘した。だが日本では今も薬による治療が主流だ。

抗うつ薬は、重いうつ病やパニック障害などの不安障害には効果が高いが、軽いうつへの効果を疑う研究もある。飲み始めて急にやめると、めまいや頭痛に悩まされる人もいる。

そもそも、うつ病は発症の仕組みも解明されておらず、薬がなぜ効くのかも実はよく分かっていない。このため、薬が効かないと、次々に別の薬が出され、大量の薬を飲み続ける人も少なくない。

■心理士の国家資格がない日本

北里大教授で精神科医の宮岡等は指摘する。「たとえば『夜眠れない』という方によく話を聞くと、午後以降にお茶をたくさん飲んでいるような場合がある。お茶を飲まず、昼寝もしないようにするだけで、不眠がよくなることも少なくない。薬の副作用や生活のアドバイスを軽視して、簡単な診察だけで安易に薬を出す医者が多い」

日本でも10年から、うつ病に対して、カウンセリングを通じて物事の受けとめ方や行動を変える心理療法のひとつ、認知行動療法に健康保険が使えるようになった。しかし、保険が適用されるのは医師による治療に限られる。1日に数十人を診察している精神科医も多い中、1人の患者に30分以上かけて認知行動療法を行うのは簡単ではない。的確な心理療法には専門的な知識や経験が必要だ。欧米では心理士が大きな役割を果たしているが、日本の心理士は国家資格ではなく、公益法人や学会などがバラバラに認定している。

治療の前提となる診断も課題だ。たとえば、気分が高まる「躁」と落ち込む「うつ」という両極端の気分を繰り返す双極性障害(躁うつ病)の人は、抗うつ薬を飲めば症状が悪化しかねない。

そこで、心の病を正確に診断するための「バイオマーカー」(生体指標)の研究も進んでいる。そのひとつが、頭に近赤外線をあてる「光トポグラフィー」。脳の中の血流を調べて、うつ病と双極性障害、統合失調症を見分けるもので、昨年から保険が使えるようになった。ただ、東大病院など7施設による13年の研究結果によると、うつ病について光トポによる診断と通常の診断が一致した確率は75%。光トポだけで診断することはできず、補助として使えるだけだ。

「心の病」は診断も治療もまだまだ手探りなのが実情だ。