グローバル化と謎の修道士 世界を動かすものとは?

――G8財務相会議に、1人の修道士が招かれ、ある事件に巻き込まれていきます。どのように着想を得たのですか。
最初に修道士のことを考えました。過去がない、謎に包まれた人物。沈黙を選択し、修道院で生活している。そんな人物がG8に呼ばれるところからアイデアは始まりました。
着想は、読書や驚かされたことが積もって、急にやってくるんです。いつ、どこから、と説明するのはむずかしい。ただ、前作で政治の弱さを扱いました。その弱さについて考え、「じゃあ、強いものは何なんだ」と考えたら経済だったわけです。
――作品には、グローバル資本主義への批判が多分に含まれていました。
自分の周りの世界を見渡し、一番目につくのは不均衡です。たとえば米国のトランプ大統領。彼は、自分たちの特権意識について語りますが、それは民主主義とは無縁のものです。貧富の差が広がっているのに、それには興味がない。私は決してモラリストではないし、映画でモラルを伝えようとは思わないけれど、今の世界、社会に対して疑問を投げかけたいとは思うんです。最近の世界を見ていたら、経済は限界に達しているということは明らかです。世界はこの状況と向き合うべきです。
――作品中の「民主主義はナイーブだ」というせりふが印象的です。
今は世界で民主主義が形骸化してしまって、空っぽの貝殻みたいになってしまっています。カメラを意識した道化役者のような人間が話すことで変えてしまうようなものに政治がなってしまっています。経済と対決する姿勢を持った政治、イニシアチブが生まれてこない。政治が経済と対決するのは義務であるはずなのに、それは生まれてこない。唯一、世界で政治を行おうとしているのはフランシスコ法王ではないですか。
フランシスコ法王は伝統的な教会に対し批判的です。実際、堕胎や同性愛も受け入れようとしており、彼が自由な人間だとは言えると思います。彼が組織としての教会と対立しているのは、彼が人間への愛を持ち、それが強いからこそです。
興味深いのは、この映画を南米で公開した時、作品の修道士をフランシスコ法王と重ねて見る人たちがいたことです。イタリアでは、修道士は教会組織の末端にいて、中心的な存在ではないと考えられています。法王と比べるのは不思議なことでした。
――先進国ではポピュリズムが広がっていますね。
ポピュリズムは現代の病気です。それはテレビの鏡でしょう。また、インターネット上にはフェイクニュースも流れますし、感情的に書かれることも多い。興奮させるものが好まれます。
一方で、本や映画は、他者の物語を通じて自分自身と向き合い、関係を築いていくものです。しかし、今は一つの作品と向き合うという時間を持つことがなくなっています。ライブのコンサートや舞台でもそうですが、劇場に行くと、みんな携帯電話でメールなどをチェックしている。画面の光が見えるわけです。
ひとりぼっちで言葉や映像、音と向き合って、自分なりの何かをそこから作っていくという作業は人間の成長に必要なことです。その中から、人生の大きなテーマを見つけ出していくことができる。集中することによって、一番最後に来るもの、つまり死に対して準備することが人生なんじゃないかと思うのですが、そういったことが今は行われていません。
――グローバル資本主義は市場を拡大させるために開発をしていきます。そのプロセスの中で、文化の侵略が進んでいるように思います。
作品の中でも出てきますが、資本主義は「創造的破壊」を必要とします。資本主義は、そこに新しい経済を生み出すために、カタストロフィーを生み出さなければなりません。資本主義の特質です。
この映画では、経済のセオリーを表していませんが、別の見せ方をしました。国際通貨基金(IMF)の理事であるロシェという人間が修道士を呼ぶ。誰にも言っていなかった、ある事実を告白するために。その後、予期せぬことが起こります。会議に集まった各国の大臣たちは、その答えを見つけられない。それで修道士に対し疑惑が向けられ、サスペンスの要素が生まれてきます。
私は映画の人間で、エコノミストではありません。経済のセオリーを語ることはしませんが、この映画で表しているのは、「世界を動かしているのは経済である」ということです。表舞台には出てきませんが、世界の運命を変えているのが、こうしたエコノミストであるということが、この映画の中で描かれているわけです。
イタリアではエコノミストが映画を見に行き、論争になりました。ある銀行家から電話がかかってきて「私は犯罪者ではない」と言われました。「マフィア映画のマフィアにだって、彼らの言い分がある」ってね。
1959年、イタリア・パレルモ生まれ。フェデリコ・フェリーニなど著名監督の助監督を務め、2000年に長編デビュー。オペラや舞台の演出も多数手がける。