黒田東彦・日銀総裁の任期が終わりを迎えている。「リフレ派」として知られる若田部昌澄・早大教授は、黒田総裁の約5年にわたる金融政策をどう評価しているのだろうか。2%の物価目標の達成に向けて、今後求められる政策などをたずねた。
異次元緩和の実体経済への好影響は評価
―黒田東彦総裁の5年間をどう評価していますか。
「基本的には2%物価目標を達成することを目的として始まった体制だ。なぜ2%かというと、物価をデフレからマイルドなインフレにすることで、インフレを加速しない失業率(NAIRU)を達成し、日本経済を良くするという目標があった。黒田体制になり、(2017年12月の生鮮食品を除く消費者物価指数が前年同月から0.9%上昇するなど)物価が持続的に下落するという意味でのデフレではない状況にもってきたこと。これは非常に大きい。有効求人倍率や失業率は改善し、就業者数が増えている。最近では男女ともに正規雇用が増えており、雇用面は非常に良くなっている。また、実質賃金は上下動を繰り返しているが、雇用者総報酬は名目でも実質でも増えている。実体経済への好影響は評価できる。課題としては、2%の物価目標に達していないのは厳粛な事実で、これは謙虚に受け止めるべきだと思う」
―物価目標を達成できていないのはなぜでしょうか。
「日銀自身が、2016年9月に金融政策の『総括的検証』を公表し、2%の物価目標を達成できていない理由を、14年10月の消費税増税と原油価格の下落であると分析している」
―次期総裁はどのような人物がふさわしいと思いますか。
「2%の物価目標をきちんと理解し、達成できる人が良い。2%に到達しても、すぐに金融を引き締めることはせず、2%を安定的、継続的に運営できる人だ。2%の物価目標に向けて淡々と粛々と仕事する人が望ましい。加えて、世界で起きている中央銀行や経済学の議論に理解があり、目配りのある人が良い」
金融緩和の継続と積極財政が必要
―2%の物価目標の達成が重要という立場からみて、必要な政策をどうお考えですか。
「まずは政府と日銀が一致協力してデフレから脱却するという原点に返ることだ。日銀は金融緩和を続けて、政府は積極財政に転じるべきだ」
―2%の物価目標達成をめざす上で、金融政策から財政政策へと政策の比重は移っているのでしょうか。
「(日銀が市場に供給するお金の量を増やせば予想インフレ率が変わり、実質金利が下がり物価は上がっていくとリフレ派が主張した)当時の歴史的な文脈は、政府はそれなりの額の財政出動をしていたということだ。例えば、リーマン・ショックの時の麻生政権は、かなり財政出動をしていた。足りていなかった政策は、金融政策だった。政府が緊縮財政をとることを当時は考えていなかったため、財政の影響をどの程度捉えるかという視点が欠けていたとはいえる。デフレから脱却する前に2014年に消費税の引き上げをしたため、デフレ脱却のレジーム転換の勢いが毀損してしまった。しかし、異次元緩和などそれまでの金融政策が誤っているかというと、全くそうではない。むしろ経済をここまで良くしている」
―リフレ派と呼ばれる人の中にも、財政出動に積極的な立場と、財政出動に慎重な立場の二つに分かれている印象があります。
「リフレ派の核となる定義は変わっていない。日本経済で長く続いてきたデフレに対する問題意識があり、デフレからの脱却を進めるべきだという目標がまずある。その目標に対する手段として、インフレ目標を伴う金融緩和は必要条件だと考えている。この二つの条件を満たすのがリフレ派だろう。この2点にプラスされる財政政策への態度などは、核となる定義には含まれていない。財政政策以外の他の政策、例えば成長政策や再分配政策については、リフレ派の中でも論者によって意見は色々ある。とはいえ、ポール・クルーグマン米ニューヨーク市立大学教授やバーナンキ元FRB議長のように、最初から財政政策の役割を認識していた論者もいたのは事実だし、岩田規久男日銀副総裁も財政政策の役割を否定したことはない」
財政再建の不安は誇張されている
―財政出動を増やすと、財政再建がさらに遅れてしまいませんか。
「リフレ派が財政再建をないがしろにしたことはない。むしろ、財政再建をするためにも、デフレ脱却が必要だということだ」
「アベノミクスが始まって以来、総債務残高の名目GDP比は、横ばいから頭打ちくらいになっているし、総債務から総資産を差し引いた純債務残高の名目GDP比も同じような動きを示している。基礎的財政収支(プライマリーバランス)の名目GDP比も赤字幅は急速に小さくなっている。消費税の引き上げをしたこともあるが、名目GDPが増えて、所得税や法人税収が増えていることが大きい」
「コロンビア大学のデイヴィッド・ワインシュタイン教授らのような見方もある。日銀は政府の国債発行残高の約4割を買い上げている。日本政府の負債は総額の数字でみるよりも、資産額を控除した数字で見るべきで、それを見るとかなり減っているという意見だ。実際に、(リーマン・ショック、東日本大震災、北朝鮮の情勢不安など)何かことが起きれば、円が買われている。日本国債への需要は極めて根強い。こうしたことは、日本の財政が危機ではないことを示している。現状では、財政再建についての懸念は誇張されているのではないか」
―マイルドな1%未満のデフレであれば経済への影響は少ないという立場については、どう評価していますか。
「(そうした立場の人たちは)大規模な金融緩和で長期金利は急騰する、あるはハイパーインフレが起きると指摘していたが、そのようなことは起きていない。マイルドなデフレからマイルドなインフレに移行した現状で、財政はむしろ健全化しているし、実体経済は良くなっている。構造的失業率は4%くらいで実体経済は良くならないという意見もあったが、すでに述べたように失業者は減って有効求人倍率は上がり、自殺率も下がっている。異次元緩和などの金融政策だけでそうなったと言うのは言い過ぎだと思うが、やはり金融政策が貢献したと考えるべきではないか。マイルドなデフレが良いという議論は、海外ではほとんど聞いたことがなく、各国の政府・中央銀行当局はデフレに陥らないための政策運営を一生懸命行っている」
―金融政策を正常化させる「出口」の議論をするのはいつごろが良いと考えていますか。
「『出口』に対するイメージをはっきりと持つべきだと思う。出口とは、2%の物価目標を安定的に運営する時にどのような金融政策をとるかという問題だ。2%の物価目標を安定的に維持するときに、具体的なバランスシートの規模や資産構成がどのくらいになるかはその時々の状況に依存する技術的な問題になる」
「出口戦略を早く議論すべきだという人たちは、2%に到達しなくても金融緩和を縮小すべきだと考えている節があるが、それはどうだろうか。出口とは2%を持続的に達成することだというイメージをもっと浸透させた方が良いと思う。その手前で金融緩和を縮小するという話になると、人々の予想インフレに働きかけるという意味で金融政策の効果が小さくなる可能性がある。だからこそ、現在の日銀はインフレ率の物価目標2%以上の上振れも許容するオーバーシュートにコミットしている」
パウエル新議長は慎重な政策運営か
―米国では、FRBのパウエル新議長が就任します。
「FRBは手堅く政策を進めているし、パウエル新議長はこれまでの政策の担当者でもある。新議長は理事・連銀総裁たちの意見の合意を基にした慎重な政策運営を行うと思う。しいて課題を挙げるならば、危機対応を迫られたときだろうか。例えばバーナンキ元議長やイエレン前議長は学術的なバックグラウンドや経済学の素養から手を打った側面がある。パウエル新議長の場合も、経済学を頼りにするだろうが、どのように危機に対応するかは未知数の部分がある」
―米国の現在の株価はバブルの要素があるという指摘もあります。
「そもそもバブルかどうかを判断するのは極めて難しい。確かに、株価を企業の一株当たりの純利益で割った株価収益率(PER)でみると、過去のバブル時並みに高い。しかし、株価収益率は企業の期待成長率が高い時にも上るので、これだけでバブルかどうかを判断するのは危険だ。もう一つ、大事なのは株式と他の資産、例えば債券との関係だ。(株式と債券の利回りを比較して相対的な割高感や割安感を判断する)「イールドスプレッド」という指標をみると、まだ利回りを犠牲にしてまで株を買っているという感じではない。現在の株価が過去と比べてバブルとは断言できないのではないか」
若田部 昌澄(わかたべ・まさずみ)1965年生まれ。早稲田大学政治経済学術院教授、コロンビア大学日本経済経営研究センター客員研究員。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。早稲田大学大学院経済学研究科、トロント大学経済学大学院博士課程単位取得退学。早稲田大学政治経済学部助手、助教授を経て、現職。専攻は経済学、経済学史。著書に「経済学者たちの闘い」(東洋経済新報社)、「危機の経済政策」(日本評論社、第31回石橋湛山賞)など。