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週末は難民たちを訪ねて@アンマン(ヨルダン)

私の海外サバイバル 更新日: 公開日:
アンマンの町並み=写真はいずれも田村さん提供

田村雅文 シリア支援団体「サダーカ」代表 

私のON

2012年7月から今年6月まで中東・ヨルダンの首都アンマンに住んでいました。赴任当初は妻と生後14カ月の息子を連れ、13年に妻が一時帰国して長女がうまれてからは家族4人での生活になりました。

ヨルダンに行ったのは、紛争下にある隣国シリアから逃れた人たちを支援するためでした。私は大学院卒業後の05年から2年間、青年海外協力隊員としてシリアにいました。ダマスカス郊外でホームステイしながら、農村部で生活環境の調査を行い、村人たちと話し合いながら生活改善を進めました。ホームステイ先の家庭は私を家族のように温かく受け入れてくれ、おせっかいに思えるぐらい気に掛けてくれました。帰国後は、外資系のフィルターメーカーに3年半勤め、その後、ODAのコンサル会社に移りました。

その頃でした。チュニジアから始まった民主化運動がシリアにも波及したのは。日本に留学しているシリア人の友人と会うと、最初は「すぐ収まるよ」と言っていたのが、次第に「これはまずいんじゃないか」ということになり、日本での報道も増えてきました。シリア人の温かさが忘れられなかった私は、自分が何かをやらなければならないという思いに駆られるようになりました。仕事をやめ、123月、シリアに滞在経験がある友人たちと「サダーカ」を立ち上げました。アラビア語で「友情」という意味です。その後、4月にヨルダンに調査旅行に赴きました。

ヨルダンへの移住を考えていた時、ちょうどアンマンに事務所を退避させていたJICAシリア事務所が職員を募集していることを知りました。即応募し、7月から企画調査員として赴任することに。水資源、農業、教育などのプロジェクトを担当し、任期終了後の15年からはICARDA(国際乾燥地農業研究センター)で人材育成担当として働きました。

平日の日中は仕事をし、サダーカの活動は出勤前と帰宅後、週末に行いました。午前8時に子どもたちを幼稚園に送った後出勤し、午後6時に仕事を終えて家族といっしょに夕飯を食べた後が活動時間です。家には、サダーカの関係で日本からの訪問者が泊まり込んでいることが多く、また留学中の日本人学生もよく来ていました。シリアの話や今後の予定を話し合い、午後8時ごろ子どもたちが寝た後に、日本とスカイプ会議などをしていました。

難民宅を訪ね、服を配る田村さん

週末は、サダーカの活動に出かけます。ヨルダンで避難生活を送るシリア人は60万人強いますが、そのうち難民キャンプで暮らすのは2割。それ以外の大多数は都市部にアパートを借りて家賃を払って生活する「都市難民」です。彼らを一軒一軒訪ねて歩くのです。これまでに約300世帯を訪ね、必要な世帯には家賃などにあてるための緊急措置として日本で集めた支援金を少しずつ配りました。

支援金を配るのが最大の目的ではありません。難民キャンプにいる人たちと異なり、彼らは孤立しがちです。話をして、どんな支援が必要なのか聞き取り、地元の支援団体やシリア人有志のグループなどにつなぎます。最初に訪問する時には部屋に入った瞬間、空気が張り詰めているのが分かります。彼らは人生を翻弄された怒りや悲しみ、やるせなさをぶつける先がありません。アラビア語が分かる外国人の私には言いやすいのでしょう。怒りをぶつけ切った後には、ふるさとへの思いがあふれてきます。コップもないような環境の中で「話をしていけよ」と、お茶を出してくれます。シリアでそうであったように。小さな子どもがいる家には、妻と子どもたちを連れていくこともあり、空気が和らぎました。

紛争前のシリアを知らない人の中には、都市で暮らすシリア人を見て「冷蔵庫もテレビもある。むしろ(国際的な援助で)いい生活をしているんじゃないか」と言う人もいます。しかし、難民たちは、必ずといっていいほど家族や親戚の誰かを失っています。家族や土地は彼らが最も大事にしているものです。そしてその土地に息づく人や宗教的組織とのつながり。それらを失ったことを考えると、彼らの望みがひとえに「シリアに戻り、家族一緒に暮らすこと」であることがよく分かるのです。

ICARDAの組織改編で、今年8月、家族とともにエジプトの首都カイロに引っ越しました。紛争が落ち着き、シリア難民が国に戻った後にも、壊された家はどうするのか、国内に残っていた人と戻ってきた人との軋轢など、様々な問題が想定されます。新しい火だねが生まれないよう、外部の者として何ができるか。これからもアンマンに通いながら考え、必要な支援をしていきたいと思っています。

私のOFF

アンマン市内のローマ円形劇場を訪れる田村さん親子

家族で暮らしていたので治安面を心配されることもありましたが、滞在中、問題は全くありませんでした。むしろヨルダン人やシリア人は子どもが大好きで、レストランに行っても店員が子どもの相手をしてくれるなど、子育てのしやすさがありました。ただ、車社会で、公園や児童館のような場所がなく、遊びは室内になりがちです。糖尿病や高血圧など生活習慣病も多いので、意識的に週末に家族との時間を作り、子どもたちを屋外に連れ出しました。

アンマンから車で30分ほどの場所に死海があり、子どもたちはまだ小さいので死海では泳ぎませんでしたが、近くのプールなどではしゃいでいました。また車で3時間ほど行くと砂漠があり、テントに泊まり、満天の星を見上げました。子どもたちは日本では出来ない体験をしたと思います。

長女の4歳の誕生日はアンマンの自宅で迎えた

ヨルダンの料理はベドウィン(遊牧民)料理と言われ、羊肉、牛肉をご飯と混ぜるシンプルなものです。シリアの混乱とともにシリア料理も多く入ってきて、皮肉にも多様になったようです。我が家では、子どもたちもいるので妻が和食を作っていました。シリア赴任経験がある妻は英語とアラビア語に加え、留学していたため中国語と韓国語もできます。ヨルダンには中国、韓国人が日本人とは桁違いに多く住んでいました。妻は中国や韓国の女性たちと仲良くなり、自家栽培した大根や白菜、手作りの豆腐などをよくもらってきました。そうした食材に加え、日本の食材も高価ですが手に入るため、食事には困りませんでした。

私が自宅にいろんな人を連れてくるため、我が家にはいつも家族以外の人がいました。日本からヨルダンに来る人は少ないのに、出会う場がなかったから出会えなかった、というのは寂しいなと思い、我が家がボランティアや学生、ジャーナリストなどが有機的につながる場所になればという思いがありました。シリアやヨルダンについて、日本では否定的なイメージしかわかない人が多いと思います。せめてヨルダンに来た人の間でネットワークが広がり、地域の肯定的なイメージが伝わるような発信ができないか、自分なりにあがいてみたいと思ったのです。妻は大変だったと思いますが、笑顔で多くの人を迎えてくれました。感謝でいっぱいです。(構成・高橋友佳理)

Masafumi Tamura

たむら・まさふみ/1979年、三重県生まれ。青年海外協力隊員として2年間のシリア赴任の後、フィルターメーカー勤務などを経て、2012年から家族とヨルダンに移住。今年7月に発表された日本青年会議所主催の第31回「人間力大賞」で準グランプリを受賞。現在、家族でエジプト・カイロに住む。

アンマン

ヨルダン・ハシミテ王国の首都で9000年前にさかのぼる古代からの都市。市内にはローマ円形劇場やアンマン城など歴史的建造物が残る。