『ラブレス』の主役は、モスクワで美容院をきりもりするジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク、33)と大手企業勤めのボリス(アレクセイ・ロズィン、40)の「ひどすぎる夫婦」だ。寒々しい2012年秋、離婚協議を進める中、12歳の一人息子アレクセイ(マトベイ・ノヴィコフ)を押しつけ合い、互いをののしる。ジェーニャには裕福な男性の、ボリスには妊娠中の若い女性の愛人がすでにそれぞれいて、新たな生活を早く始めたがっていた。そこへアレクセイが失踪。警察はあてにならず地元のボランティア捜索隊が総出で探すが、それでも夫婦はすさんだ気持ちをぶつけ合い続ける。
物語は2012年に始まり、2015年へと続いてゆく。なぜこの時代なのか。ズビャギンツェフ監督に聞くと、「ある種のクライマックスのような時期。ロシアはこの時、希望を失った」と返ってきた。
2012年は、ロシアでプーチンが大統領に返り咲いた年。プーチンは2000年から大統領を2期務めたが、連続3選を禁じる憲法を前に当時の首相メドベージェフに大統領職を一時譲り、それでいて首相として権力を握り続けた末に、メドベージェフと交代する形で大統領に復帰した。2014年にはウクライナ南部クリミア半島を併合。これによりロシアの排他的な愛国心があおられ、プーチンは長期政権への求心力を高めていった。
ズビャギンツェフ監督は言う。「かつては社会に希望があった。いい方向に変化すると信じることができた。例えば企業を設立すれば発展を期待できたし、暮らしや社会の住みやすさは今後よくなると思うこともできた。子どもたちには未来があるだろうと信じることもできた。そういうものの見方がまったく変化させられ、よりよい変化を信じることなどできなくなった。ロシアの政治の雰囲気や、人々の魂あるいは精神状況が変わり、パラダイムが変わってしまった。政治制度がよい意味で変わるとは思えなくなり、代わりに無関心が訪れ、とりわけ社会に積極的に変化を求める人たちが茫然自失とする状況になった」
そうしてズビャギンツェフ監督は補足した。「長い歴史全体でみればよくある現象かもしれないが、せいぜい半世紀あまりしか生きない短い存在の人間一人ひとりにとっては、重要なできごとだと言える」
ボリスは上司が敬虔なクリスチャンで、離婚が知られれば左遷かクビになりかねない、と極度に恐れている。宗教が暮らしにどんどん圧を加える流れが、ロシアで出てきているということだろうか。そう水を向けると、ズビャギンツェフ監督は「そう、実際に、教会や宗教が市民の生活に強く介入している状況がある。あの上司にはモデルがいる」。監督によると、モスクワ近郊のある牛乳会社のオーナーが以前、従業員に「夫婦は全員、ただちに神の前で結婚式を挙げよ」と言ったそうだ。理由は、ある夏に泥炭が燃えてものすごい煙が一帯を覆い、多くの人がモスクワを出て南部へ逃げるほどの事態となったため。ズビャギンツェフ監督は「当時は『エレナの惑い』の編集作業のまっただ中でどこにも行けなかった。家にはエアコンもなくて息もできないほどだったから、事務所に缶詰めになっていた」と振り返るが、「オーナーはそれを神の呪いだとして、呪いを解くため従業員に教会での結婚式を求めた」とのことだ。
ズビャギンツェフ監督は言う。「これは完全に、市民の権利の蹂躙。ロシアは今のところ、宗教が国家的になっていない社会だが、これからどうなるかわからない。ロシアでは、信者の感情への侮辱罪が法的に定められ、それによって訴追された人たちも実際に出ている」
劇中、ロシアの放送局によるウクライナをめぐるニュースがラジオから何度か流れてくる。ロシアの視点に立った、まるでプロパガンダ的な報道だ。一方、それを耳にするジェーニャとボリスの夫婦はスマホなどをいつも手放さず、プロパガンダ以外の情報だっていつでも手に入れられるように見える。このギャップが、モスクワのひとつの現実ということだろうか。
ズビャギンツェフ監督は「この夫婦は決して贅沢な暮らしとは言えない中流家庭、しかも中の下だ。ボリスはローン漬けで、失業を非常に恐れている」と、夫婦が経済的にはごく平均的な層であると注釈しつつ語った。「ウクライナで最も流血がひどかった東部のニュースが流れても、登場人物は自分たちのことばかりで、報道には無関心だ。ジェーニャはインスタグラムに投稿しているのか友だちにショートメッセージでも送っているのか、スマホに集中している。洗脳のためのプロパガンダ的なニュースの仕組みがあまりにも蔓延しすぎて、流れてくる洗脳の材料にさえ人々は無関心になっている」
そのうえで、ズビャギンツェフ監督はロシア人ならではと言える「反論」もつけ加えた。「でも例えばニューヨークやロサンゼルスで暮らしに満足している人に言いたいのは、あなたの国はずっと軍事行動を続け、アフガニスタンやイラクなど砂嵐の中で戦争をしてきたじゃないですか、と。人々の暮らしと国の行動は別だということだ」
確かにそうだ。米国には自国の介入の歴史に興味のない人たちがいて、日本には自国の負の歴史に背を向ける人々がいる。ロシアでウクライナ問題に無関心な人たちがいるからって、安易に批判などできないはずだ。
とはいえ、たとえばいわゆる西側諸国とロシアとの間に目に見える違いがあるとすれば、表現の自由をめぐる命がけの状況だろう。政権に批判的なジャーナリストがたびたび殺害されたロシア。そんな中にあって、ズビャギンツェフ監督は等身大のロシアを描き続け、前作『裁かれるは善人のみ』(2014年)に至っては、かなり直接的に当局を批判し、カンヌ国際映画祭脚本賞にゴールデングローブ外国語映画賞と、国外で高い評価を受けた。プーチン政権が長期化する中、これからも思うような創作活動を続けていけるのだろうか。
「実は私は、そうした(言論弾圧の)状況には直面したことがない。文化省や当局からの圧力や介入、脅迫、また政府からの公式な批判はこれまでなかった。『裁かれるは善人のみ』についてはいろんな発言があり、当局に近いある人物からは『赤の広場に出てひざまずき、全ロシア国民に許しを乞うべきだ』と言われたが、主な発言は当局からも異端視されているような人たちからだった」。ズビャギンツェフ監督は、資金面でも自由だという。「私は資金的に懸念したことは一度もない。やりたいプロジェクトをまったく国から独立した形で進め、ほとんどの作品は資金も自由に集められている。カンヌなどで賞をとるとまったく違う軌道に乗れるためだ。だからたとえ圧力があっても、資金を西側に求められると思う」
ちなみにズビャギンツェフ監督作の中で唯一、『裁かれるは善人のみ』だけは製作費の一部がロシア政府から出た。「いわゆる国家権力を最も目に見える形で批判したのに、皮肉なことだ」
ズビャギンツェフ監督は続けた。「とはいえ私の状況は非常に特殊だと思うし、すべての人にこれが当てはまるわけではない。カンヌなどで賞を取っていないロシアの他の監督たちには、現代の課題を反映し、作り手の声が聞こえるような映画を作るのが難しくなっているのは確かだ。国はそういう人たちのサポートにまったく関心がない。国威発揚映画や人々を楽しませるコメディー、つまり人々を偽りの夢に追い込むような作品を作らせることには関心があるが、社会問題を浮き彫りにし、その議論を促す作品からは目を逸らさせたいと思っている」
「旧ソ連時代はイデオロギーの独裁があり、こうあるべきだ、こうあってはならない、と国と党が説明した。資本主義国家のロシアで何が圧力の手段になるかというと、お金だ。イデオロギーで何も説明しなくても、お金を出さなければ作品は作れない。文化省や基金がお金を出さないと、映画が作れなくなる。お金が圧力や検閲の手段となっている」。ズビャギンツェフ監督は語り続けた。
「ただし、出口のない真っ暗な状況ばかりではない」として、ズビャギンツェフ監督はインタビューをこう締めくくった。「『裁かれるは善人のみ』を見た中国の映画監督と上海で話した時、『中国ではあの映画は撮れない。もしあなたが中国人の監督なら、必ず投獄されただろう』と言われた。今のところ私は、刑務所に入っていませんよね」
自由のなさと、自由とが交錯するロシア。明らかな憲法違反は慎重に避けながら長期政権を築いてきたプーチンのありようと、重なる気がした。