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幼児教育は格差解消の切り札になるか ノーベル賞学者らが挑む研究

World Now 更新日: 公開日:
カナダ・トロント市のローズ・アベニュー公立小学校内に設けられた「子育て支援センター」に集うパキスタンから来た移民の家族 photo:Nakamura Yutaka

そこで過去に行われた調査を参考にした。その一つが1960年代、ミシガン州の貧しいアフリカ系住民の34歳児を対象にした研究だ。一部の幼児に無償で教育を行い、その後を40歳まで追跡したところ、教育を受けた子は受けなかった子よりも学歴や収入が高く、生活保護を受けたり、犯罪で逮捕されたりする割合が低かった。

これらの結果をもとに、幼児教育に投資したお金から、どのくらい社会の利益になったのかを計算した。すると、控えめにみても610%に達した。ヘックマンによると、戦後から2008年までの米国株式の配当利回り58%より高い。

一連の分析の結果、ヘックマンは、教育への投資効果は年齢が低いほど高くなるとも指摘し、格差は「貧者への施し」ではなく、「事前の投資」で解消すべきだと訴えた。

貧しい子どもへの投資が社会にどれだけのリターンをもたらすのか。それを実証する試みは今も続けられている。

同じシカゴ大学経済学部教授のジョン・リストは、シカゴでも最も貧しい地区として知られるシカゴハイツに無料保育園を二つつくった。109月のことだ。

ジョン・リスト photo:Nakamura Yutaka

一つは読み書きといった「認知能力」の向上を目指し、もう一つは「ごっこ遊び」などを通じ社会性を育むことに力点を置いた。教育の中身と成果の因果関係を探るためだ。

シカゴハイツの取り組み

調査では、(1)認知能力を主に教える園の子ども(2)社会性に重きをおいた園の子ども(3)園には通わないが、親に家庭で教育してもらうためのカリキュラムを教える家庭の子ども(4)一連の教育プログラムには参加しないが、調査に協力してくれる家庭の子どもの四つのグループを比べる。将来どのような違いが生まれるのか、社会にどのような効果をもたらすのか。効果を実証できれば、公教育の早期化という政策の実現に近づくと考えた。対象の子どもは3歳児と4歳児。教育プログラムを受ける3グループは抽選で選び、調査に使う1000万ドル(約11億円)は、シカゴの著名な資産家をリストが口説いて用意した。

保育園の運営は4年間で終了し、今は小学校に進んだ子どもたちを定期的に追跡調査している。最終結果が出るのは遠い先のことだが、すでに効果は表れている。

入園から4カ月後の知的能力を調べるテストで、入園前は全米平均を大きく下回っていた子どもたちが、平均を超えた。親が研修に参加した家庭の子どもたちも、社会性や心の発達を評価する項目が上向いた。「親が学ぶ」効果は、未成年で子どもを産んだといったような、子育てのリスクが高いとされる家庭で、とりわけ高かった。

「奇跡が起きた」と、シカゴハイツの小学校区教育長トーマス・アマーディオは驚いている。

トーマス・アマーディオ photo:Nakamura Yutaka

「現状に満足してはいなかったが、お手上げだった。調査は親や子どもだけでなく、教師の態度も変えたんだ」と言う。小学校から派遣され調査に加わった教師がやる気になり、生徒指導の向上のための話し合いの時間をつくるようになった。親向けの研修会は今も独自に続けている。

自らも裕福とはいえない労働者家庭で育ったリストは「教育を受けても貧困から抜け出せないと思い込む親たちがいる。その考えを変えたい。貧富による教育格差を解消したい」と話す。

日本にとっても他人事ではない。世帯収入をもとに子どもを含む国民一人あたりの可処分所得を試算し、順番に並べた時に真ん中の人の額の半分(貧困線)に満たない人の割合を「相対的貧困率」という。13年の国民生活基礎調査によると、18歳未満の子どもの相対的貧困率は163%で、85年の調査開始以来最悪の数字となった。また、ひとり親家庭に限ると半数以上がこの相対的な貧困状態にあり、OECD加盟国の中でも最悪の水準となる。

国は14年に施行した「子どもの貧困対策法」にもとづき、幼児教育の無償化の範囲拡大と負担軽減を進めている。

天才児を守れ

わが子の利発なふるまいに「もしや天才かも」と胸躍らせた経験はないだろうか。ただ、本当に天才だったら喜んでばかりはいられないようだ。

「知能が高い英才児にとって、学校の授業は耐えがたいほど退屈。他の生徒の指導に忙しい先生には放置される。クラスメートからは不気味だといじめられる。どれほどつらいか分かりますか?」

そう語るのは米国サンフランシスコで幼稚園から高校までの一貫教育を行う私立ヌエバスクール副校長のテリー・リーだ。ヌエバ幼稚園の応募条件はIQ130以上。同じ年齢の上位23%に相当する。飛び抜けた知能の子どもだけを集めるのは、嫌な思いをさせず、伸び伸びと学びに集中できる環境を作るためだ。

ヌエバスクール副校長インタビュー

全米には、知性や創造性、芸術性などに秀でて、普通の学校教育ではその能力を伸ばすことができない「ギフテッド(gifted)」と呼ばれる子どもが610%いるとされる。多くの州がこうした子どもを対象にした教室を開いている。

本来の学年よりも上の学年で学ぶ「飛び級」や、上の学校に進む「飛び入学」も珍しくない。飛び入学の大学生は全学生の約16%にあたる約18万人。日本の場合は201512月時点の累計で音楽大学など9大学に123人が飛び入学したに過ぎない。

リーも中学生の時、双子の姉はその前の小学6年の時に大学に飛び入学した。「飛び入学は『しないよりはマシ』という選択だった。誰だって同じ年ごろの子どもと一緒に学びたい」と振り返る。同じ年齢の子どもたちとの関わりがなくなり、成熟する過程が損なわれる恐れを指摘する声がある。ギフテッドだけを集めれば、その心配はないとリーは考える。

南部テネシー州のナッシュビルにあるバンダービルト大学で教育発達科学を研究するカミラ・ベンボウは、理数系の能力をみるテストで上位1%に入った13歳の生徒の人生を、40年以上にわたって追跡調査している。こうした生徒に飛び級を含めた教育的な介入をすると、地位や収入、社会への貢献度など多くの点で介入しない場合に比べて効果が高かった。

日本では英才児を特別に教育することへの警戒感が根強いが、ベンボウによると社会全体の利益にかなう。フェイスブック創業者のマーク・ザッカーバーグや、グーグル共同創業者のセルゲイ・ブリンを引き合いに、こう話した。「彼らは社会を変えました。違いますか?」。みなギフテッドだったという。

ギフテッド教育の必要性は分かった。ではギフテッドにする術はあるのだろうか。ベンボウが答えてくれた。

「そうやって頑張る親を見てきましたが、うまくいったためしはない。むしろ逆効果になりやすい。英才児にしようという発想自体が危ないのです」(敬称略)

子どもの未来は大人の責任 取材した記者は思う

この春、1歳になったばかりの長男が認可保育園に通い始めた。入園許可の通知を受け取ったときは胸をなでおろしたものだ。ただ、入れなかった家庭もあることを思うと割り切れない気持ちが残った。

国は、2015年に「子ども・子育て支援新制度」をスタートさせ、待機児童の解消を目指している。だが、課題は多い。待機児童の8割超を占める02歳児を対象にした小規模保育(定員619人)を認めて施設を増やそうとしているが、3歳になってからの受け入れ先を確保できていない施設が少なくないという。保育士資格がなくても保育の担い手と認めるなど設置基準が緩く、拙速な施設増がトラブルにつながらないかも心配だ。毎年計1兆円超かかる新制度の財源も、消費税の10%への引き上げを前提にしているうえ、引き上げてもまだ3000億円足りない状態だ。

子育てを終えた親や子どものいない大人にとって、こうした問題は他人事に映るのかもしれない。しかし、少子化はすべての人の生活にかかわってくる問題だ。乳幼児教育や子育て支援の充実といった投資が、格差の解消につながり社会全体に大きなリターンをもたらすことも分かってきた。子どもの将来が生まれ育った環境に左右されない社会をつくる。それは大人全員の責任なのだと思う。

そのうえで一人の父親として、私が息子に何をしてあげられるのか考えてみたい。

取材を通じて感じたのは、どうやら子どもの才能や関心がどこに向かうのかも分からないうちに早期英才教育に熱を上げない方がよいということ。その代わりに一緒に遊んだり話をしたりすることで人生の「旅支度」を整えた方がよさそうだ。まずは、なるべく早く帰宅し、ちゃんと休日をとる。妻とうまく家事を分担して親子3人の時間をたくさんつくるということになろうか。

考えてみれば当たり前だが、その当たり前をちゃんと続けられるかどうかで大きな違いが生まれるのだろう。子どももそんな親の態度を観察しているはずだ。