アメリカでの中絶、合憲から違憲に
アメリカ連邦最高裁は2022年6月、全州で中絶を合法化した通称「ロー対ウェイド判決」を違憲として覆した。以後、中絶の是非は各州に委ねられ、南部テキサス州などレイプや近親相姦による妊娠も含めて全面禁止とした州、「妊娠〇〇週まで」と条件付けを行った州、ニューヨーク州やカリフォルニア州など、これまで通り合法の州に分かれている。
ロー対ウェイド判決とは、1973年にテキサス州の女性、ジェーン・ロー(匿名の意)が起こした訴訟を指す。妊娠したローは中絶を希望したものの、当時のテキサス州では母体に危険が及ぶ妊娠でない限り、中絶は違法だった。これを人権侵害とするローの訴えを当時の最高裁は認め、以後、全米で中絶が合法となった。
中絶の合法化に激怒したのが「プロ・ライフ(pro-life)」と呼ばれる、胎児の命を尊重すべきだと考える中絶反対派だ。
その多くはキリスト教保守派であり、1970~80年代には過激化したグループが中絶クリニックを爆破や放火する事件が100件以上も起こった。1990年代に入ると中絶医が暗殺される事件が続き、クリニックの警備員など巻き添えとなった犠牲者も含めると、少なくとも11人が殺害されている。犯人の中には元聖職者が含まれている。
中絶を女性の権利として擁護する派は「プロ・チョイス(pro-choice)」と呼ばれ、プロ・ライフ派とプロ・チョイス派は長年にわたって攻防を続けてきた。また、中絶問題は過去の多くの大統領選で重要な論点として取り上げられてきた。
こうした背景がある中、トランプ政権下で保守派の判事の任命が相次ぎ、現在の連邦最高裁は判事9人のうち保守派6人、リベラル派3人の構成となっている。この最高裁が「ロー対ウェイド判決」を覆したのだった。
性被害による妊娠でも、母体が危険でも中絶できない
現在、中絶を禁じているのは主に南部の14州、妊娠週数による制限(最短6週まで〜最長18週まで)を設けているのが7州、30州と首都ワシントンD.C.が合法としている。
禁止州の中でもテキサス州は特に厳しく、先に書いたようにレイプや近親相姦による妊娠であっても中絶できない。
母体に危険がある場合は例外としているが、これも後で詳しく述べるが実質的には中絶できない。
中絶を行うと、患者ではなく医師が懲役最長99年、罰金最低10万ドル(約1450万円)、医師免許剥奪の処分を受けかねないため、医師はたとえ中絶が必要なケースと判断しても施術できない。加えて同州は妊婦を中絶クリニックまで送迎するなど「中絶を手助け」した者も、それを知った一般市民が告発できる法を作ってしまった。
したがってテキサス州在住者が中絶を行える唯一の方法は、中絶合法州に出向くことだが、同州は日本の約2倍の面積を持つ広大な州だ。医療費に加え、航空運賃と滞在費をまかなえる層だけが可能と言える。
それでもその実態を踏まえ、中絶が合法であるニューヨーク州などは他州からの患者に中絶手術を施す自州の医師を、逮捕や訴追から守る新法を制定した。中絶を巡って州による、まさに攻防戦となっているのだ。
昨年12月、テキサス州在住のケイト・コックスという女性がメディアによって大きく取り上げられた。
コックスさんは昨年8月に3人目の子供の妊娠を知って喜んだのもつかの間、10月の検査で胎児が「18トリソミー(エドワーズ症候群)」であると判明した。
18トリソミーは染色体の異常によって知的障害、出生時の低身長、重度の小頭症などを伴うが、40%近くが分娩中に生存できず、生まれた場合も1歳を過ぎて生存するのは10%以下とされている。
医師は、コックスさんが中絶を行わない場合、コックスさんの健康にも大きな影響があり、かつ3度目の帝王切開での出産となることから不妊症を招くリスクが高いと判断。しかし中絶禁止法下のテキサス州で医師は中絶を行えなかった。
コックスさんは中絶を求めて訴訟を起こすが、同州の最高裁判所は同年12月に中絶を却下。その間にコックスさんは容体悪化により4度、ER(病院の緊急救命室)に駆け込んでいる。結局、コックスさんは他州で中絶手術を受けることとなった。コックスさんはニューヨーク・タイムズのポッドキャストに出演し、涙ながらに顛末を語った。
同州の医療現場は以前から「母体が危険な場合は中絶可能」の基準が明確でないことを訴え続けていたという。コックスさんの事案の後も基準の検討に至っておらず、したがって今後も同様のケースが出るものと思われる。
流産した母体に命の危険も
中絶禁止は流産にも思わぬ影響をもたらした。
流産とは、様々な理由から胎内で亡くなった胎児が、胎内に留まってしまうか、または体外に出てしまうことを指す。流産後、胎内に残った胎嚢などを取り出す手術(通称D&C)を行わなければ母体が感染症、時には死を招く敗血症を起こすことがある。
この手術が、手法的には中絶手術と全く同じであるため、テキサス州では流産を起こした女性が命に関わる重症に陥らない限り、行わないケースがある。
ニューヨーク・タイムズの報道によると、同州のある女性は、病院での検査で胎児に心音がなかったにも関わらず、医師から「1時間に1回以上、オムツに血が充満するほどの大量出血があった場合のみ戻るよう」指示されたとある。
医師は万が一、胎児がまだ生きていた場合、自身が中絶法違反に問われることを恐れたのだろう。女性は帰宅後に耐え難い痛みに襲われ、バスタブにお湯を張ってつかったところ、お湯は出血で真っ赤に染まったと語っている。
アメリカでは、流産は妊娠20週未満に起こるものを指し(日本では妊娠22週未満)、20週以後は「死産」とみなされる。妊娠を自覚している妊婦の約10人に1人に起こり、妊娠ごく初期の、女性が妊娠に気付く前のものも含めると4人中1人に起こっている可能性がある。
中絶禁止州では多くの妊婦が上記の女性と同様のつらく危険な経験を負わされており、中には安全な妊娠出産を求めてパートナーと共に他州への引っ越しを計画、またはすでに実行している人たちがいる。
中絶薬を擁護するバイデン大統領
現在、アメリカの中絶手術の半数以上は手術ではなく、ミフェプリストン(Mifepristone)という薬の服用によって行われている。
この薬は流産後の手術に代わるものとしても使われている。中絶反対派はこの薬の流通を制限すべく訴訟を起こしているが、それを阻止しているのがバイデン大統領だ。
昨年9月、ミフェプリストンの流通を制限する下級裁判所の判決に対してバイデン政権は控訴し、かつ連邦最高裁判所に提訴している。
かつては中絶薬を使うにしても医師との面談の上、医師から直接、薬を受け取る必要があった。広い米国では中絶薬を処方する医師のオフィスまでがとてつもなく遠いこともあった。
現在は医師とのネット面談によって処方され、薬は郵送で受け取れる。中絶を行おうとする患者にとって時間、体力、時には仕事を休まずに済むことから経済的な節約になるだけでなく、心理的なプレッシャーの大きな軽減にもなっている。
中絶に反対するプロ・ライフ派の主張
米国で中絶反対派が非常に根強いのは、そもそもはキリスト教保守派の思想に基づくからだ。プロ・ライフ派の主張は、どんな命も尊重されなければならず、たとえレイプや近親相姦による妊娠であっても、胎児に重篤な障害が判明し、さらには誕生後にどれほどの期間、生存できるか分からずとも、とにかく出産を行うべきとするものだ。
一見、正論に思えるこの主張には、生まれた子供の幸福の保証が含まれていない。レイプや近親相姦によって生まれた子供を育てる母親の苦しみはいかほどか、それが子供にどう影響するのか。
プロ・ライフ派は「養子を求める人は多く、生みの親が育てられないなら養子に出せばいい」と言うが、多人種社会であるアメリカの現実を全く考慮していないか、意図的に目をつぶった意見と言える。
自身と異なる人種の養子を迎えた人たちが「素晴らしい」とメディアなどで取り上げられがちだが、実際には養親は同じ人種の子供を選ぶことが多い。人種差別ではなく、たとえば、住人のほとんどが白人の小さな街で、黒人文化を知らない白人の養親が黒人の子供を育てるのは親と子のどちらにも負荷が伴う。
そもそも10代の出産や極度の貧困女性のケースでは、生まれた子供の多くが貧困から抜け出せない。中絶の全面禁止はよほど手厚い社会保障制度を作らない限り、機能しないが、その部分をプロ・ライフ派は決して語らない。
もっとも、プロ・ライフ派には「私の親は一度は中絶しようとしたが、気持ちを変えて私を産んだ。だから私は今ここにいる」と声を上げる人がいる。中絶がこうした人たちの存在を抹消してしまう行為であることは間違いない。
女性から決定権を奪うミソジニー
出産か中絶か。どちらを選んでも母親と子供の未来を占うことは不可能だ。障害を持つ胎児であると知った上で出産して懸命に育てている人も少なからずいる。
しかし、中絶や流産の処置を受ける「選択の自由」を女性自身に与えないことによって女性は身体的、心理的、社会的、経済的にもがき苦しみ、時には死に至ることもある。これを放置するのは深刻なミソジニー(女性蔑視)だ。
このミソジニーを法によって強化する共和党の政治家に対し、民主党の政治家は女性の人権を尊重することによってリベラル社会を実現しようとする。
トランプ氏が大統領になったことによって最高裁が保守に偏り、その結果、保守とリベラル、共和党と民主党の分断がさらに深まったと言える。
1月15日の大統領選予備選開始直前の1月3日、共和党から立候補している実業家のビベック・ラマスワミ氏はニュース番組に出演し、中絶問題を語った。
キャスターがテキサス州で中絶手術を受けられなかったコックスさんの件を質問すると、ラマスワミ候補は「産むべきだった」と答えている。キャスターに「医師が生存可能性のない妊娠だったと証言しているが」と問われても、「それは確立した事実ではない」と反論した。
やはり共和党から立候補しているフロリダ州知事のロン・デサンティス氏は、昨年4月に同州の中絶の期限を妊娠15週目までから6週目までに引き下げる州法案に署名した。6週目では多くの女性が妊娠に気付かないことから、実質の全面禁止に近い状態となる。
さらに今年1月8日、それでも足りないとばかりに同州のある共和党下院議員が、母体が危険な状態にある以外の全ての中絶(レイプ、近親相姦による妊娠を含む)を禁じる法案を提出した。
共和党からの唯一の女性候補者である、元国連大使のニッキー・ヘイリー氏は「できる限り多くの赤ちゃんを救い、できる限り多くの母親をサポートする方法に集中しましょう」と柔らかな言葉を選ぶが、強硬なプロ・ライフ派だ。
サウスカロライナ州下院議員だった2010年、実質的に中絶を完全禁止する法案を共同提案している。
予備選の幕開け州であるアイオワ州で1月9日に行われたタウンホール・ミーティングでは、司会者に「中絶は15週目までとする連邦制限を支持するか」と聞かれ、「可決されるものなら何でも支持する」と答えている。現在は各州に委ねられている中絶法を連邦で一元化することに同意しているのだ。
今後、アメリカに移り住む女性、もしくはアメリカ国内で転居をする女性には「州の中絶法を確認しろ」とアドバイスせざるを得ない。アメリカはそんな国になってしまったのだ。