アメリカに住むカブヤ・パールマンさんは数年前、VR空間で1日8時間ほど費やしていた。彼女は、2000年代半ばに流行した米リンデンラボの仮想空間「セカンドライフ」で、安全対策のリーダーだった人物だ。
仮想空間で知り合った男性と話していたら、前ぶれもなく突然、自分の「アバター」(分身)にキスをするそぶりを見せてきた。
「どうしていいかわからず、思わずログアウトした。常軌を逸していた」
その後、仮想空間では、その男性を避けるようになった。「現実世界とまったく同じことが仮想空間で起きるはずだ」。パールマンさんによると、仮想空間ではハラスメントや暴力、いじめの問題も起きているという。
「だれかが、あなたのアバターをたたいてきても、何も感じないかもしれない。でも、仮想空間で過ごせば過ごすほど、実際に痛みを感じるようになる」
仮想空間で痛みを感じるとは、どういうことなのか?
彼女が説明するのは、「ファントム(錯覚の)タッチ」と呼ばれる現象だ。
アバターの動きを見た視覚から、脳が刺激を受けることで、実際に体に触れているように感じるという。ハプティック(触覚)スーツと呼ばれるセンサー付きウェアを着ると、もっとリアルになる。
パールマンさんは「足を失った人が義足を動かせるのは、脳が自分の足だと考えるからで、それと同じ原理だ。強烈な性的表現も可能になる」と話す。
セキュリティーの専門家でもあるパールマンさんはNPO「XRSI」をつくり、仮想空間におけるプライバシーや安全性に対応するガイドラインを、2020年に策定した。
XRSIから助言を受けるオーストラリア政府の電子セーフティーコミッショナー、ジュリー・インマン・グラントさんは地元紙の取材に対し、「親たちはオンラインの虐待が、いかに子どもに影響するか理解していない。『たかがオンラインで起きていること』と考えているかもしれないが、オンラインは子どもにとっては世界のすべてだ」と訴えた。
アメリカのシリコンバレーに住んでいるライアン・スコブルさん(12)は、9歳のころ、VR端末でゲームを始めた。部屋にいながら英国やオーストラリアの子どもたちと知り合えるのが楽しくて、長いときは1日8時間ほどVR空間で費やした。いまはVRをやめたが、のめり込んでいたころは「時間の感覚がなくなった」と振り返る。
ライアンの父親で、著名なブロガーのロバート・スコブルさんは「親たちの問題はVRをただのゲーム機と思っていること。実際はパワフルなコミュニケーションマシンだ。ゲームの最中にも、性的動画が映るような空間に簡単に行くことができる」と話す。
メタバースを勢いづける力の源泉は、これまでのネット空間をはるかに上回る膨大なデータだ。
プライバシーの問題だけでなく、人間の心理面への影響も指摘される。米スタンフォード大学の18年の調査によると、VR空間で20分ほど過ごしただけで、目の動きや手の位置、歩き方など身体の動きについて、200万ものデータが収集できるという。
目だけをとっても、目線の位置、虹彩の色、まばたきの回数、瞳孔の開き具合といったデータから心理状態や疲れ具合がわかるほか、人物も特定できるという。
「技術がさらに進化すれば、あなたの精神状態や、行動や態度の意図まで読むことができるようになる。メタが開発中の最新技術は、専用センサーを手首につけると、個別の運動神経細胞を識別できる。わずかな体の動き、顔のけいれん、肌の反応などのデータを合わせれば、人の気持ちを読めるようになる」
7年間で、1600人以上のVR関係者にインタビューし、VR関連のポッドキャスト番組を主宰するケント・バイさんはそう話す。
人間にとって大事な「考える」行為にも影響を与えることになりそうだ。
脳科学分野では、脳の信号を直接読みとってデータ化しコンピューターとやりとりする技術開発が進んでいる。信号を読みとる機器を人の頭に直接入れると、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者が考えたことをコンピューターに反映できる。
IT企業は、この技術開発にしのぎを削っている。メタ社(旧フェイスブック)は19年、脳の信号を読みとる技術を手がける企業を買収。金額は最大10億ドル(約1280億円)と報じられた。
担当者は「試みているのは、脳の外側にある手や指の筋肉を動かす神経系からの信号を用いて機械を動かせるようにすることだ」という。
著名起業家のイーロン・マスクさんが創業した「ニューラリンク」は、人間の脳に直接埋め込むチップの開発を手がけている。昨年は、サルの脳に無線技術のブルートゥースを使ったチップを埋め込むことで、サルが「考える」だけでコンピューターゲームをあやつるデモを公開した。
脳科学者で、米コロンビア大学教授のラファエル・ユステさんは「心配なのは脳の信号を読みとる技術がVRとつながることだ」と話す。VRを通じ脳のデータが悪意のある第三者の手にわたり、仮想空間での個人の行動や記憶があやつられる恐れがあるという。「いずれ現実になる。いまから備えが必要だ」と訴える。
危機感を抱くユステさんらは17年、「Neuro-Rights(神経の権利)」という新しい概念を示した。個人の考えが勝手に開示されることがないメンタルプライバシーなど、五つの権利からなる。
アメリカのホワイトハウスに招かれた際、政府の高官らに説明したところ安全保障面からも関心を寄せていたとユステさんは言う。VR技術は情報操作や拷問にも使われかねないからだ。
ユステさんは「こうした技術は、私たち自身が誰なのかという精神の本質に関わってくる。だからこそ、人権問題として捉えなくてはならない」と強調する。