カチタスの前身の「やすらぎ」は1978年創業。中古住宅をリフォームして販売する事業モデルを確立し、2004年に名証上場。業績が悪化し、12年上場廃止。経営陣を刷新し、17年に東証1部に上場。社名をカチタスに変えたのは13年で、中古住宅の「価値を足す」(リフォームして付加価値をつける)という意味にちなんだ。
日本の空き家は右肩上がりに増えている。総務省の統計によると、2018年時点で、全国の空き家は約850万戸で、この30年ほどで2倍以上に。日本の全住宅のうち、空き家が占める割合は18年で約13%だった。38年に全体の3割に達するというシンクタンクの予想もある。米欧では中古住宅市場が発達し、空き家問題は深刻化しづらい。日本では新築が好まれるため、空き家が増えやすい。問題を放置すると景観や治安の悪化につながり、防災面でも問題が生じやすい。
カチタスが提供する中古リフォーム住宅について、新井社長は、新築でも、ふつうの中古でも、賃貸でもない、「第4の選択肢」と呼んでいる。家を売りたい場合、仲介業者に委託しても反応がなく、管理できず放置されて空き家になってしまう事例は多い。カチタスは空き家を買い取り、「売り主に安心して家を手放していただく」(新井社長)。独自のノウハウで空き家を仕入れ、リフォームで付加価値をつけ、新築の半額程度で販売する。新井社長は「家を買いたい人と、売りたい人の、それぞれの願いが住宅市場では実現されていない。私たちが現状を打破したい」と話している。
――新井さんは、もともと政治家志望だったそうですね。
はい。高校生のころから政治家になろうと考えていました。東京大学に進学してからも、思いは変わりませんでした。「いずれ政治家に」と考えていましたが、25歳にならないと立候補できないので、まずは会社で働くつもりでした。
ある銀行から内定をいただいたのですが、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)の方に呼ばれ、挨拶に行きました。私は応援部だったのですが、大学の運動部の先輩と次から次へと会うことになって、「三和銀行はどうだ?」と誘われました。銀行本店ビルが熱を帯びているように感じ、自分にフィットしている感覚を持ちました。それで入社を決めました。
――その後、東京都議会議員選挙に出馬しました。
1993年に銀行に入ったのですが、97年の東京都議会選挙への出馬を決意しました。準備のため1年前には銀行を辞めました。働いたのは約3年でしたので想定より短かったです。最初は衆議院議員をめざしたのですが、著書を愛読していた大前研一さん(経営コンサルタント)が95年に都知事選に出馬し、「都議会という道もあるか」と考えました。
出馬した当時は28歳。選挙戦は激戦で、テレビの選挙報道では、早まって私に「当確」が出たのですが、結局落選となりました。最後まで票をカウントしないと、勝敗が分からない接戦でした。
――落選後はどうしたのですか?
勝つつもりでやっていたので、落選後のことは考えていませんでした。しばらく何もしていなかったのですが、衆議院議員の古川元久さんから「私の秘書をやらないか?」と声をかけてもらいました。親には、「とにかく、1回だけ選挙に挑戦させてほしい」と言って許可をもらったので、今後も政治に関わるかどうか迷いましたが、せっかくのお誘いなので、古川さんの秘書になりました。
東京の事務所で働きました。古川さんのもとを、さまざまな民間金融機関の人たちが訪れては、金融を再生するアイデアを披露しました。実際に経済を動かしている民間企業の側からアイデアが持ち込まれるダイナミズムを目の当たりにして、「もういちど、民間のビジネスに身を置きたい」と思うようになりました。当時は29歳。そのころは「転職するなら30歳がぎりぎりのライン」という雰囲気があったので、古川さんに断ったうえで、コンサル会社のベイン・アンド・カンパニーに入社しました。
――コンサルの仕事はいかがでしたか?
必死に働きました。「明日から来なくていい」とならないように、とにかくキャッチアップしなくては、という思いでした。深夜まで働いて朝早くから出社するという毎日で「修行僧」のようでした。その結果1年後に昇進して、やりがいも感じました。
とはいえ、違和感ももっていました。コンサル会社にはロジックが切れて、プレゼンもうまい一流のコンサルタントがいますが、自分はそういうタイプではないと思いました。コンサル業務は顧客に助言しますが、自分で事業を回すわけではない。自分で経営したいと思っていたので、コンサルの道を極めるイメージが持てなかった。
33歳になったころ、夢だった海外のビジネススクールへの留学を本気で考えました。「33歳でビジネススクールに行っても得るものがない」と言われましたが、古川さんや銀行時代の先輩に相談すると、「行くべきだ。世界を見てきなさい」と言っていただき、決断しました。
――結局、どこに留学されたのですか?
ニューヨークのコロンビア大ビジネススクールです。日本生まれ、日本育ちですので、英語の苦労はありました。ある授業で発言しようと挙手を続けたのですが、先生がなかなか指名してくれなかった。授業に出ている30人ほどが発言を終えたのですが、正解が出ませんでした。最後に発言のチャンスが与えられ、発言すると正解だったのです。周囲が認めてくれ、自信になりました。
経営者になってからもビジネススクールでの経験が役立ちました。世界の機関投資家に対して、いたずらに身構えることなく、きちんとディスカッションができるためです。IPO(新規株式公開)をめざす際、香港やシンガポール、ロンドン、シカゴ、ニューヨーク、ボストンを訪ね、多くの投資家と向き合いました。彼らとも臆せず話ができたのです。
コロンビア大学のようなビジネススクールには、将来、ウォールストリート(金融街)で働く人材が集まります。日本人からすると「どんなにすごい人たちだろう」と身構えてしまうところがありますが、学生たちは自分と同じように悩んだり、宿題がうまくできなかったりしていた。日常の生活では友人として接することもできました。大きな財産です。
――ビジネススクールを終えてからは、どうしたのですか?
経営者になりたいという思いを持っていましたが、いきなりなれるはずがありません。どこかの会社で新規事業の責任者として働ける場所を探しました。新規事業は、社内の知見だけで手がけることが難しいので、そこにチャンスがあると思っていました。
仕事を探している中、リクルート社のある取締役の方と居酒屋で面談しました。その場で、当時リクルートが検討していた新規事業リストを見せてくれ、「君、新規事業がやりたいのでしょう。どれでもいいから選んでください。やらせてあげます」と言われました。
噂には聞いていたけど、すごい会社だなと思いました。しかも、それは最初の面談でした。ぜひ新規事業をやりたかったので入社を決めました。このやりとりが決め手でした。まさに、ご縁だったと思います。
――リクルート入社後は、どんな仕事を手がけたのでしょうか?
マンションを販売するカウンター(対面)ビジネスを新たに立ち上げました。マンションを探している人にアドバイスをして、成約にこぎつけたらマンション業者から紹介料をもらうビジネスモデルです。人集めからブランディングなどゼロから一つひとつ考えながら進めていきました。やりたい仕事にめぐり合うことができて面白かったですが、ゼロから事業を生み出すのは難しかった。何とか事業を形にしなくちゃいけない、収益を出さねばというプレッシャーを感じました。とはいえ、リクルートという大企業のバックがありますので、事業の資金に困ることはなかったのですが。
――順調に仕事ができたのですね。
この仕事を3年ほどやって、異動となりました。住宅関連の営業部門に配属されたのですが、正直、不本意でした。「将来は経営者になりたい」と思っていたので、新規事業にやりがいを感じていましたから。ビジネスを「丸ごと」手がけるのが新規事業だとすれば、営業はあくまで一つの部門です。せっかく自分の幅を広げたのに、その幅が狭まったように感じました。ただ、リクルートの営業は「花形」で、すばらしい部署です。それでも、自分がめざしたキャリアと違ったので、モヤモヤしました。
――モヤモヤをどう解決したのですか?
どうしてもモヤモヤが残るので、ほかの道もあるかと思い、転職の可能性を探りました。でも、なかったです。自分の力を思い知りました。大企業で新規事業を担当し、コンサル会社で働いて、ビジネススクールで学んだ人が、自分のやりたいようなポジション、つまり経営者に近いポジションにつけるかといったら、「そんなことはない」という現実です。人によっては「経営や社長をやっていない人に社長のオファーなんて来るわけがない」と厳しく言われました。自分はまだ世の中から必要とされるレベルではないと思いました。
――その後は、どうしたのでしょうか?
リクルートで7年ほど働いたころ、旧知の事業再生系の投資ファンドの方から「久しぶりにご飯でもいかがでしょうか?」と連絡をもらいました。10年、15年ぶりなので、「何だろう?」と思いながら出かけたところ、「私たちが買収した中古住宅を手がける会社に、社長として入ってもらい事業を再生していただけませんか?」と依頼を受けました。
――かなり唐突な依頼にも見えますが、どこかでつながりがあったのですか?
投資ファンドが買収したのは、「やすらぎ」(当時の社名)という住宅業界の会社でした。その再生のために、住宅や不動産を知っている人を探していたそうです。
なぜ私がその「網」にかかったかといいますと、そのファンドの方が大学の後輩で、夏休みの間、同じ寮で過ごしていたのです。お互い「人となり」を知っていました。その方が言うには、投資ファンドが再生を手がける社長を任せるにあたっては、過去の実績はもちろんのこと、「人として信頼できるかどうか」が大事で、信頼できない人に再生を任せることはできないということでした。大学時代に、すでに「人となり」を知っていたことが大きかったようです。
――思いがけないオファーでしたが、新井さんにとっては、ありがたい話だったのではないですか?
魅力的な話だと思いました。元上場会社で、売り上げ規模は当時300億円ほど。そのころの私からすると明らかに自分の「実力以上」だったと思いますが、「またとない機会が目の前に訪れた」と思い、チャンスを取りに行くべきではないかと考えました。2カ月ほど熟慮して「お受け致します」と返事をしました。
オファーには、別のきっかけもあったのです。最初に就職した銀行出身者の会合で近況報告の機会がありました。ある方に「いまはリクルートで住宅や不動産の仕事をやっていて、将来は経営者の仕事ができたらと考えています」と話したのです。それがファンドの方に伝わって、お声がけをいただきました。自分がやりたいことを発信することは大事なことだと実感しました。誰それ構わず言うわけではないですが、自分の気持ちをしかるべき場で発信することは大事なことだと、いまも思っています。
――実際の「社長業」は、経営者にあこがれたころのイメージと違いましたか?
まったくイメージと違ったわけではなかったです。新規事業を立ち上げたので、小さいながらトップを務めて事業全体を見てきたので、何から何まで初めてではなかったです。とはいえ、うまくいかないことが続きました。当たり前といえば当たり前のことです。リクルートという確立した組織に8年ほどいましたので、再生途上の会社とのギャップを痛感しました。
リクルートでは、トップが言ったことが実行されるわけですが、私が就任した会社は指示系統がごちゃごちゃしていて、トップが言ったことが伝わらず実行されなかった。会社組織は簡単に動くわけではなく、まして再生企業ですから大変だろうと覚悟していましたが、改めて大変さを実感しました。
それでも耐えながら再生を進めることができました。組織とは単なるハコではなく「人の気持ちの集合体」でもありますので、どこかにマグマのようなものがたまったり不満を抱えている人が存在していたりします。そんな覚悟を持って臨むことができたのはよかったと思います。
――どのように組織を再構築したのでしょうか?
効果があったのは、グループの全社員が参加する「ウェブ会議」でした。コロナ禍のいまでこそ、ウェブで会議をしますが、社長になった当時は一般的ではなかったです。就任当時、伝えたことが曲解されたり現場に届かなかったりしたことがあったので、その点に悩んできました。であれば間に人を介さず現場に「社長が何を考えているか」を直接伝えた方がよいのではないか、と思うようになりました。
テレビ会議は、週に1回、実施しています。私のほか経営陣が従業員に直接、具体的なメッセージを発します。コミュニケーションが一方通行にならないよう、アンケートを書いてもらったり会議の途中で発言してもらったりと工夫を重ねています。これまでは「社長にそんなことを言えない」と途中でつぶされてしまった意見が届くようになりました。非常に重要な場だと考えています。
テレビ会議だけではなく、就任後1年半かけて全店舗を訪ねました。社長の出勤日も変えました。当初は、月曜日から金曜日の平日出勤でしたが、土曜日と日曜日に働くことが多い営業現場との「心の距離」が埋まらない気がしました。そこで途中から、勤務を現場に合わせるべきだと思い、水曜日を休みにして、土日は働くことにしました。
「スモールウィン(小さな成功)を積み重ねることが重要」と言われますが、そう思います。社長から社員への一方通行の指示だけでなく、ちょっとした変化、成功を積み上げていかないと、みんなついてきてくれません。
――会社を経営するうえで、新井さんが大事にしていることは何ですか?
「世の中のためになるか」という観点は大事にしています。この仕事が「世のため人のため」になるかどうか。それは、仕事をがんばれるかどうかの大事なポイントだと思います。その意味で私たちの事業は「空き家問題を解決する」「人々に手ごろな価格で品質のよい住宅を提供する」という点で、社会課題の課題、さらには顧客一人ひとりの課題解決につながると考えています。
私たちの事業が成長するということは、日本の空き家問題の解決が進んでいることの証しです。顧客にとっては、抱えたまま困っていた空き家が売れたり、より安くいい住宅が買えたりする人が増えていることでもある。空き家を抱えていた顧客がおっしゃるのは、共通して「これで肩の荷がおりました」という言葉でした。ビジネスを通じ、多くの人の「肩の荷をおろす」お手伝いができたらと考えています。