識別番号15563。正式には、こう記録されていた難破船が、「インダストリー号」であることが確認された。メキシコ湾に沈んだ唯一の捕鯨船だった。
1815年建造の木造帆船。1836年5月26日、嵐にあって転覆、沈没した――15563番がその船であることは、科学的に見て間違いないとの発表が、2022年3月にあった。
船の確認だけではない。ほぼ確実に黒人と白人、先住民で構成されていたと見られる乗組員の状況にも、新たな発見があった。南北戦争(1861~65年)以前の米国で海の仕事がどう営まれ、人種間の関係がどうだったのかを知る手がかりを得ることもできた。
この船の残骸が最初に記録されたのは、2011年だった。石油鉱区の地質データを精査していた企業がメキシコ湾の海底で発見。所定の手続きに従って米海洋エネルギー管理局(BOEM)に届け出た。識別番号15563として登録されたが、そのままになっていた。
沈没船は世界のどこの海底にもあり、石油の探査ではしょっちゅう見つかっている。しかし、ジェームズ・P・デルガドは、この船に興味を抱いた。遺跡や埋蔵物などの文化遺産を専門に扱う米サーチ社の上級副社長。その目にとまったのは、鯨油を採るかまどの存在が発見報告に記されていたからだ。捕鯨船特有の設備だった。
そこに、米海洋大気庁(NOAA)からサーチ社に誘いがあった。メキシコ湾で新しい装置を試すが、調べてみたい沈没船はあるかとのことだった。
海洋考古学者でもあるデルガドは22年2月、自分の事務所からNOAAの調査船「オケアヌス・エクスプローラー号」の担当乗組員に指示を出すことになった。
ミシシッピ川の河口から沖合70マイル(約113キロ)ほど。新しい遠隔操作の潜水機(ROV)が、沈没船のある深さ6千フィート(約1829メートル)の海底に送り込まれた。ROVは正確なパターンを描いて調査地点を往復しながら、現場の映像と関連データを送信してきた。
その結果、デルガドらの研究チームは、オルソモザイクと呼ばれる高密度点群に基づく解像度の高い立体モデルを作ることができた。
沈没船の大きさは、長さ64フィート(20メートル弱)、幅20フィート(6メートル強)。船体の形には、19世紀初めの特徴があった。船に使われていた素材からは、銅成分を表す固有の緑色は出てこなかった。鯨の脂肪から油を採るれんが囲いのかまどは、断熱を兼ねたれんがの分厚さからかなりの高熱が使われていたことを示していた。
これらの特徴は、沈んでいた場所とともに、インダストリー号について知られていたすべてのことと合致した。
捕鯨産業は、インダストリー号の現役時代は活況にわいていた。しかも、この船が母港とした米東海岸北部のマサチューセッツ州ウェストポートのようなところでは、他の産業分野では見られないほど緊密に黒人と白人、先住民が一緒に働いていた。
著名な捕鯨船の建造主の中には、実業家ポール・カフィがいた。解放された黒人奴隷(訳注=マサチューセッツ州は1783年に奴隷制度は非合法であると宣言、この制度を廃止する運動の中心になった)の息子で、先住民族ワンパノアグの一員でもあった(訳注=母親が先住民だった)。さらに、自身の息子の一人ウィリアムもインダストリー号に乗り込んでいた。
カフィ家は「所有する船舶のほとんどの乗組員に黒人と先住民を雇っていた。給与は同じ職務内容である限り、必ず同一にしていた」とリー・ブレイクはいう。マサチューセッツ州ニューベッドフォード(訳注=19世紀の捕鯨、漁業の重要港。土佐の漁師「ジョン万次郎」らを無人島から救出した捕鯨船の母港でもあった。今も「捕鯨の市」と称している)歴史協会の会長で、カフィ家の子孫でもある。
「米南部の港では、先住民と黒人を奴隷として使うのが当たり前だった時代に、まったく違う労働条件を与えていた」とブレイクは指摘する。
このため、多人種が乗り組むインダストリー号の航海先も制約された。船に故障が生じ、米南部に寄港すれば、黒人は投獄され、奴隷として売り飛ばされる恐れがあった。
だから、ほとんどの捕鯨船はメキシコ湾そのものを避けた。ニューベッドフォード捕鯨博物館の元歴史研究員ジュディス・ルンドによると、メキシコ湾での捕鯨航海は1780年代から1870年代までの間に計214回しかなかった。
そんな時代状況下で沈没したインダストリー号の乗組員がどうなったのかは、これまで分かっていなかった。このため、デルガドはウェストポートの公立図書館の司書ロビン・ウィンターズにあらかじめ調査を頼んでいた。
ウィンターズは2021年9月に本格的に調べ始めた。しかし、この船が1836年にメキシコ湾のどこかで、乗組員名簿とともに沈んだということぐらいしか分からなかった。当時、捕鯨一家として有名だったスターバック家の文献は、インダストリー号の船長が「ソウル」という名前であることを伝えているだけだった。
何カ月調べても、進展はなかった。そんな中で、かつて世界有数の捕鯨港だったマサチューセッツ州ナンタケットの専門家ジム・ボルジレリに連絡をとった。すると、1830年代の新聞の切り抜きから、ナンタケットを母港とする捕鯨船エリザベス号に関連して「ソウル」という人物がいたことを突き止めてくれた。
マサチューセッツ州を含む当時のニューイングランド地方では、ソウルはよくある姓だった。
「それでも、『ひょっとしてインダストリー号の乗組員と船長は(横帆を備えた2本マスト帆船の)エリザベス号に救出されたのでは』と思った」とウィンターズは振り返る。
そこで、インダストリー号とエリザベス号が一緒に出てくる記事がないか、ボルジレリに探してもらった。
10分後に電話がかかってきた。
ボルジレリは、1836年6月22日付のナンタケット・インクワイラー・アンド・ミラー紙にへばりつくように掲載されていた小さな海事記事を読み上げた。
――エリザベス号は6月17日、375バレル(1バレル=160リットル弱)の鯨油とともに母港に戻ってきた。さらに「5月26日に、310バレルの鯨油を積んでいて転覆したウェストポートの捕鯨帆船インダストリー号のソウル船長と乗組員も一緒だった」
つまり、まったくの偶然で、インダストリー号の全員が同じ地方の捕鯨船に無事救出されていたのだった。
海洋考古学を最も面白くしてくれる発見は、教科書に載るような著名な船だけに限らないとデルガドは話す。それは、「船が語ってくれる日々のできごとにある」。
「歴史とは、偉大な名前がつくるものではないことをかみしめるべきだ」といいながら、デルガドはこう付け加えた。
「船を見つけると、いろんな意味で一冊の本が開いたような気持ちになる。すべてのページが最初からあるわけではない。でも、ひとたびそろうと、『ワオ!』って感じになる」(抄訳)
(Maggie Astor)©2022 The New York Times
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