ウクライナの核撤去のため、アメリカと手を組んだロシアの元将軍 危機のさなかの訃報

ソ連の崩壊で独立した後継国には、大量の核兵器が残された。ウクライナの何千発もの核弾頭を含めて、米国の協力を得ながらその撤去を完遂させたロシアの元将軍エフゲニー・マスリンが2022年2月26日、84歳で亡くなった。東西冷戦時代の怨念を超えなければ、ありえなかった事業だった。
マスリンの娘エカテリーナ・バンコフスカヤによると、がんを患っていた。
ロシアがウクライナに戦火を開き、米欧の軍事同盟・北大西洋条約機構(NATO)も引きずり込まれるかもしれない現状では、思い起こすことすら難しいのかもしれない。しかし、当時は、放置すれば世界の安全を脅かす事態に、ロシアとウクライナと米国がともに立ち向かったのだった。
この事業は、1991年にソ連が急に崩壊したことから始まった。その後継国となったロシアやウクライナなどは、大変な課題を背負い込んだ。推定2万5千発もの核兵器の安全性をどう確保するか。ほとんどはへき地にあり、保管状況も劣悪だった。犯罪者やテロリストからこれをいかに守るかは、(訳注=核不拡散の観点から)深刻な問題となった。
その解決を一任されたのが、マスリンだった。ロシアの各種の核兵器を3万人の兵士と技師を率いてきちんと管理しながら、答えを探さねばならなかった。
最初の3年間は、ソ連から核兵器を受け継いだウクライナとカザフスタン、ベラルーシの各国に対して、これをロシアに引き渡すよう説得した。ところが、それを受け入れるべきロシア自体に、安全な保管方法がなかった。
その間に米国では2人の上院議員が率先してこの問題に取り組み、必要な資金や専門知識を提供する用意があることをロシア側に伝えていた。ジョージア州選出の民主党サム・ナンとインディアナ州選出の共和党ディック・ルーガーの両議員の主導で生まれた「協調的脅威削減計画(CTRP)」だ。
しかし、ロシアの政治・軍事の指導層は、かつての敵と手を携えることには深い疑念を抱いていた。
ただ、マスリンは違っていた。技術畑の出身。ソ連崩壊の数カ月後に、ロシアの核兵器部門のトップに任命されていた。米提案を受け入れようとする数少ない指導層の一人で、同僚たちの説得に努めた。
「なんで米国人と一緒にやらなきゃいけないんだ、という他の連中とは一線を画していた」とウラジーミル・オルロフは語る。モスクワのシンクタンクPIRセンター(訳注=核不拡散など世界の安全保障問題を中心に研究するNGO)の所長だ。マスリンは97年に現役を引退すると、ここに勤めるようになった。
「マスリンはこういっていた」とオルロフは振り返る。
「これは、自分たちの安全に必要だった。米国に気に入られるためではなく、自国の周りにある核兵器をきちんと安全にするために必要だったんだ」
マスリンは、どこから見ても「ロシアの将軍」だった。まるで、映画の中から抜け出してきたようだった。
広い肩幅と分厚い胸板。突き出た濃い眉毛。制服には、何列もの勲章が輝いていた。長い食事の終わりには、大声で歌って祖国をたたえるのが大好きだった。
コニャックと「美」を、こよなく愛しもした。CTRP担当の米国防次官補ハロルド・P・スミス・Jr.をモスクワに迎えたときは、バレエ鑑賞で歓待した。
ワシントンを訪問すると、今度はスミスが私的なもてなしとして国立美術館のナショナル・ギャラリーを案内した。すると、マスリンは、学芸員の一人と時間をかけて熱心に話し込んだ。テーマは、フランス美術の印象主義だった。
米側のカウンターパートたちとの会合には、米作家デール・カーネギーのベストセラー「人を動かす(原題:How to Win Friends and Influence People〈友を得、影響を与えるには〉)」を読んで準備した。
そして、英国の作家・詩人ラドヤード・キプリングを引用してあいさつをした。「おお、東は東、西は西。そして両者はけっして会うことがないだろう」(訳注=「東と西のバラード」冒頭)。ただし、これにはその逆の期待が込められていた。
「話のあちこちに機知に富んだ言葉をよくちりばめた」と米側でCTRPの実施に携わったウィリアム・ムーンは話す。「『おお、米国の人々よ。残念ながら、あなたたちは事故にあって、われわれをこうして助けることになってしまった』という具合に。でも、そうしながらも、私たちと信頼関係を築くことにすべてを集中させていた」
その種子は、実を結んだ。90年代を通じて、核問題での米ロの協力関係は、一歩ずつ深まっていった。核弾頭を運ぶときは、銃撃にも耐える覆いが米国から届いた。弾頭がロシアに運び込まれると、今度は何マイル(1マイル=約1.6キロ)分もの高度な安全フェンスが送られてきた。弾頭の移動・保管状況をリアルタイムで把握する管理システムをマスリンのところで開発する際にも、米側の支援があった。
マスリンが担当したのは、核弾頭を安全にロシアに集約することだけではなかった。米ロ間の協定に基づき、ロシア側の核兵器の一部を廃棄する監督責任も担った。その数は、年間2千発にものぼった。
CTRPが90年代に始まったときは、米国のブッシュ(父)政権内には国防長官ディック・チェイニーを含む懐疑派がいた。仮に99%の弾頭移送を成功させたとしても、何百発もがまだ危ない状況に留まるではないかと批判した。
しかし、マスリンは一発たりとも取り残さなかった。90年代を通じて、政治、経済の大混乱がロシアを苦しめ続けたにもかかわらずやり抜いた。
「平和と安全保障にとっての重要性という点では、このナン・ルーガー・プログラムでの共同作業は、第2次世界大戦中にモスクワとワシントンが示した軍事・経済の協力関係にも匹敵する。それは、とくにその導入期について顕著だった」とマスリンは2016年に語っている。
エフゲニー・ペトロビッチ・マスリンは1937年5月20日、ノボトムニコボで生まれた。モスクワから南東250マイルほどにある村だ。育ったのは、その近くの町アルガソボ。両親はいずれも教師だった。
54年に、ソ連軍に入った。歩兵部隊の将校になるつもりだったが、第2次世界大戦の最前線で戦った父親が反対した。妥協して、工兵部隊の技師を目指すことにした。
59年に、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の通信技術士官学校を卒業。数学と物理で優秀な成績を収めた。
物理学の研究所の特別研究員になる予定だった。ところが、士官学校を去る準備をしているときに、新たな辞令を手渡された。ソ連国防省内の極秘部門への配属だった。急速に開発が進められていた核兵器を担当するところだった。
マスリンは、ここで着実に階級を上げていった。技術の習熟に優れていただけではない。微妙な政治的な空気を読み解く感覚にたけていた。
89年にベルリンの壁が崩れる数カ月前に、この部門のナンバー2になった。ソ連が崩壊して数カ月後の92年には、トップに上り詰めた。
97年に60歳となり、軍人としての定年を迎えた。その後も、先のPIRセンターで、核兵器をめぐる安全保障と削減問題を担当。ロシア政府と関連業務を請け負う事業者側の双方に助言を与えた。
「彼は、どう見ても理論家タイプではなかった」と(訳注=元米国務次官の)ローズ・ゴットメラーは語る。外交官としてマスリンと働いたことがある。「任務の遂行に全力を尽くす、根っからのたたき上げの軍人という感じだった」
2000年代に核兵器の削減プロジェクトが縮小されると、核戦争を阻止できるのは核兵器の全廃しかないとマスリンは確信するようになっていた。核兵器の廃止を求める有識者会議「グローバル・ゼロ・コミッション」に名を連ね、欧州や米国の賛同者と連絡を取り合った。
「核戦争になると、南極のペンギンにも害が及ぶのだろうか」。17年のスピーチでマスリンは、こう問いかけた。「もちろんだ。だから、この地球全体を守るという視点に立って、人類は互いに脅し合うことをすぐにもやめねばならない」
自らも関わって90年代に育まれた友好・協力の精神が、10年代に入って色あせていくのをマスリンは苦々しい思いで見つめた。ロシアのプーチン大統領は15年、核兵器についての米国の支援はもう必要ないと宣言した。20年以上も続いた協力関係の終わりだった。
しかし、マスリンは希望を捨てたわけではなかった。例え、指導層が新たな世代に入れ替わるまで待たねばならないとしても、米ロ両国が再び歩み寄る日が来るに違いないと信じるからだった。
22年1月、亡くなる数週間前に彼はこう記している。ロシアがウクライナに侵攻する1カ月ほど前のことだ。
「ベーリング海峡の両側の若者たちが、ロシアと米国との関係をどうしたらよくできるか考えてくれるのなら、まだすべてが失われてしまったわけではない」(抄訳)
(Clay Risen)©2022 The New York Times
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