南極大陸に深く入り込んだウェッデル海。遠隔操作の水中カメラを氷が浮かぶ海面から1千フィート(約300メートル)以上も下ろして海底を映し出すと、コオリウオの巣がすぐに見えた。
操作していたのは、ドイツのアルフレッド・ウェーゲナー極地海洋研究所(AWI)の研究生リリアン・ベーリンガー。砂地を掘った丸いくぼみがいくつもあり、海底をえくぼだらけにしているように見えた。
いずれもフラフープほどの大きさで、互いに1フィートも離れていない。中にはコオリウオが1匹ずついて、ほとんど身じろぎもせずに暗い色の胸びれをコウモリの羽のように卵のかたまりの上に広げていた。
その名の通り、この魚は海水が凍るギリギリの冷たさの中でたくましく生きている。屈強な心臓。それに、ウォッカのように透き通った血が、その生命力のカギを握る。
血液が透明なのは、酸素を体中に運ぶ赤血球(つまり、その内部にある赤いたんぱく質のヘモグロビン)をほとんど持たないからだ。
ヘモグロビンの遺伝子を失ったのは、進化による適応というよりは、偶然のたまものといった方がよいだろう。南極の海水は冷たいが故に酸素に富んでおり、それを(訳注=うろこのない)皮膚から体内に取り込んでいる。
ベーリンガーが海底のこの光景を見たのは、2021年の2月のことだった。AWIの砕氷調査船ポラーシュテルン(ドイツ語で「北極星」)の映像室にいた。ウェッデル海への航行目的は、コオリウオとはまったく関係がなかった。
時刻は午前3時。すでに日は昇っていた。ただし、船内ではほとんど誰もが眠っていた。 船に引かれた水中カメラは、20秒ごとに海底の映像を送ってきた。驚くことに、コオリウオの巣は途切れることなく続いていた。
「終わりが全然見えなかった」とベーリンガーは振り返る。「どこを見ても、巣ばかりだった」
30分ほどしてAWIの深海生物学者オータン・パーサーが、この観察に加わった。映像は、依然として延々と巣を映し出していた。
「いったいいつまで続くのかと2人とも思った」とパーサー。「こんな光景をこれまで誰も見ていなかったなんて、信じられなかった」
それは、まる4時間も続いた。映像に記録されただけで、巣は1万6160個もあった。
水中カメラをさらに2回投入した。映っていたのは、いずれもカラスコオリウオ。その繁殖地は、静かなこの海の中で推定92平方マイル(約238平方キロ。訳注=沖縄県の石垣島が約222平方キロ)にも及んでいた。計6千万個もの巣があることになる。
これまでで世界最大の魚の繁殖地が見つかった――この観察は論文として、生物学誌カレントバイオロジーで22年1月に発表された。
「うそっ」とC.-H.クリスティーナ・チェンは思った。米イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校の進化生物学者で、この論文には関わっていない。「まさに前代未聞。気が遠くなるような巣の密集ぶりで、大発見であることは間違いない」
この報告論文は、「ウェッデル海の海底には未発見の複雑な生態系があることの証左だ」とイタリア・ボローニャの極地科学研究所の生物学者マリオ・ラ・メサ(やはりこの論文には関わっていない)は評する。
「まだ他のところで魚の巨大な繁殖地が見つかったとしても、私は驚かない」。今回の観察場所の近くにいた同一種のコオリウオが、どう巣を守っているかについて21年に文献を記しているラ・メサは、こう続けた。
今回見つかった繁殖地では、一つの巣に平均1735個の大きな卵黄状の卵があった。魚としては数が少なく、繁殖力は弱い。そんな卵のかたまりは、守られていなければ、すぐにおいしいエサになってしまうだろう。ヒトデやゴカイ類、ウミグモといった捕食生物が待ち構えている、と先の進化生物学者チェンは話す。
だから、オスが番兵となる。少なくとも卵が孵化(ふか)する前にむさぼり食われることがないよう、懸命に守る。同時に長い下あごを使って、巣を清潔に保つ――アルゼンチンのベルナルディーノ・リバダビア自然科学博物館の研究員マヌエル・ノビージョは、こう説明する。
実際に繁殖地の巣の4分の3ほどは、1匹ずつが守っていた。他は、卵はあるけれど、魚がいなかったり、白っぽい菌に覆われた魚の死骸があるだけだったりで、まったく空っぽのところもあった。
繁殖地の端の方になるほど、死の影が濃くなった。使われた形跡のない巣。コオリウオの死骸が揺れ動く巣には、ヒトデやタコが入り込み、目玉などの軟らかな部分にたかっていた。
「繁殖地の中の方で死ねば、そのまま朽ちていく」とパーサーは語る。「端の方で死ぬと、あらゆる生き物が素早く寄ってきて食べ始めてしまうようだ」
繁殖地一帯の水温は、この深さの海水としては異常なほど温かかった。カ氏35度(セ氏約1.67度)にもなるところがあり、南極の海水としては「快適な温かさ」といえるほどだった。
今回の発見は、コオリウオのライフサイクルを科学的に理解するという点では貢献した。しかし、より多くの疑問を生じさせたといった方がよいのかもしれない。
巣は、どのくらいの頻度で作られるのか。何度も利用されるのか。卵が孵化すると、守っていた魚は死ぬのか。何よりも、「なぜ、ここにできたのか」という問いが重くのしかかる、とチェンは首をかしげる。
論文の執筆者にも確かな答えはない。あるのは推測だけだ。
温かな深海流が、おびき寄せたのかもしれない。孵化した稚魚のエサとなる動物性プランクトンが、タップリとあるからなのかもしれない。あるいは別の理由なのかもしれない。
いずれにしても、ここにこれだけの規模の繁殖地ができたのには、何か特別な理由があるに違いない。西へ約31マイル(50キロ弱)の海底には、似たような巣がいくつも広がっていた。ただし、すべて空っぽだった。巣の主は入れ替わり、海綿動物やサンゴのすみかになっていた。いずれも育つのに何年もかかる寿命の長い生き物だ、とパーサーは指摘する。
もとの繁殖地に戻れば、この海域には腹をすかして獲物を探し回るウェッデルアザラシが生息している。今回の調査では発信機を取り付けて衛星で追跡した。過去のデータと照合しながら分析したところ、アザラシは予想通り主にコオリウオの巣を目指して潜っていた。
「おいしいディナーにありついていたということだね」とパーサーはいう。
一連の調査を切り上げる前に、繁殖地には水中カメラが1台セットされた。今後2年間にわたって毎日2回、撮影を繰り返す。コオリウオのライフサイクルが、もっと解明されるようになるとの期待がこもる。
その結果を先のアルゼンチンの研究者ノビージョも楽しみにしている。「この魚の求愛行動と巣作りの準備(もしくはそのどちらか)が、初めて現場で記録されるかもしれないのだから」
コオリウオの繁殖実態は、南極の(訳注=生態系内の総合的な食物循環を示す)食物網にどう関わっているのか。それが新たに分かれば、そこで暮らす生物の生息状況を把握し、保護することにつなげられるかもしれない。
今回の報告論文は、ウェッデル海の生態系を「南極の海洋生物資源の保存に関する条約」(訳注=1982年発効。日本はその前年に加盟)のもとで守るための十分な論拠になる、とその筆者たちは強調する。
「海底は、ただの不毛で退屈なところとは違う」と語るパーサーの言葉には熱がこもる。「こんなに大きな発見が、そこには埋もれているんだ。21世紀の今日になっても」(抄訳)
(Sabrina Imbler)©2022 The New York Times
ニューヨーク・タイムズ紙が編集する週末版英字新聞の購読はこちらから