現代の成長したカニは、泳ぎが得意ではない。視力だって、どうってことはない。小さなその目に頼ることはほとんどなく、エサにありつこうと急ぎ足で静かな海の底を動いている。
でも、9500万年前ともなると、いささか違ったようだ。今の南米コロンビアあたりは熱帯の海で、ある妙なカニが妙に優美な動きを見せていた。
大きさは、米国の25セント硬貨(直径2.4センチ余)ほど。「カリキマエラ・ペルプレクサ(Callichimaera perplexa)」(以下、カリキマエラ)と呼ばれる種で、どちらかというとクモに似ていた。脚は平たく、オールのよう。胴体は船の竜骨のような構造で、縦に長かった。そして、一対の大きな目があった。
(訳注=学名の由来:「カリキマエラ」は「美しいキメラ〈ギリシャ神話の怪物で、頭はライオン、胴はヤギ、尻尾はヘビの合成獣〉」。「ペルプレクサ」はラテン語で「混乱」。化石の保存状態はよいが、特徴が複雑で系統的な分類が難しいとの意味が込められている)
その目には、極めて優れた視力があった――科学誌iScienceにこのほど発表された研究論文は、そう記している。行動形態も、泳ぎ回って獲物を追っていたのではないかと見られている。
この種は、もともとはコロンビアの古生物研究者ハビエル・ルケ(現在は米ハーバード大学の特別研究員)が、2005年に見つけていた。
発見時は、ルケはまだ学部の学生だった。コロンビアのアンデス地方にあるボヤカ県で、化石を多く含む岩石を探していた。すると、節足動物の詳細な姿をとどめた化石をいっぱい含んだ岩層が、地表に露出しているのが見つかった。
化石の標本が、次々と出てきた。計100個以上を収集。その多くは、保存状態が極めてよかった。
「ともかくすごい量の標本だった」とルケは振り返る。「100個も入手できることなんて、そうはない」
うち七つの標本には、目の部分が鮮明に残されていた。でも、それがむしろ新たな謎を生んだ、とルケは語る。
現在、生息しているカニは、通常は小さな複眼を持っている。棒状の柄の先に付いており、それを収めるくぼみ状の眼球孔で守られている。ところが、カリキマエラの大きな複眼には、柄も眼球孔もなかった。
カニには、いくつかの成長段階がある。生まれてしばらくは、どちらかというと小さなエビのような形をしている。幼生期の最終段階のメガロパになると、泳いでエサを捕らえるようになり、比較的大きな目をしている。
ルケらの研究陣は、カリキマエラの化石について19年に正式に発表している。そのときは、メガロパとしては異常に大きいものの、幼生期の最終段階のカニなのかもしれないとしていた。
「でも、これほど巨大な目があるということは、何かに使っていたに違いない。とくに、このカニだけの特徴なのだから」とケルシー・ジェンキンズは、自分たちが抱いていた疑問を説明する。米イエール大学の古生物研究者で、今回の論文を執筆した一人でもある。「体の構造が謎めいているだけに、ハビエル(ルケ)はこの問題をもっと詰めようとした」
謎を解くのにジェンキンズとルケは、このカニの成長順序を再構築することから始めた。幸いなことに、カリキマエラの標本は豊富にあった。
まず、現存するカニの系統樹の中から、さまざまな14種を選んで比べてみた。驚くことに、他のカニと違って、カリキマエラはあの大きな目を成長しきるまで維持していた。
二人がはじいた推計データは、比較用に抽出したカニの現存種よりカリキマエラの複眼が早く成長していることを示していた。成長の最終段階では、その目の大きさは体の約16%をも占めるほどだった。人間でいえば、サッカーボールほどもある大きさの目玉で歩き回っているということになる。
複眼動物は基本的には世界を画素に分解して見ている、とジェンキンズは話す。複眼を形成する数多くの個眼は、それぞれ別々の画素を映している(訳注=そして複眼全体でまとまった像となる)。画素数が多いほど、見る像も鮮明になる。
今回の分析結果からすると、カリキマエラはカニとしては格段に優れた視力を持っていた。むしろ、高い視覚能力を誇る捕食動物のトンボやシャコに近かったと見られる。
「どんな行動形態をとっていたにせよ、これほど大きな目を積極的に使っていたに違いない」とルケは見る。「特大目玉は水中では大きな妨げになるし、眼球孔がないから目が露出して傷つきやすくもなる。でも、いろいろな欠点を伴ったとしても、大きな目の長所と比べれば、どうということはなかったのだろう」
成長速度に優れ、強力な視力を持つこの目に、オールのような脚と流線形の体という要素を加えてみよう。すると、自分より小さな生き物を捕食する成長したカリキマエラの姿が浮かんでくる――ルケはこう語る。
その成長は、幼生期の捕食性を保ったまま最後まで育つという過程をたどる。他のカニが、最後は平たい甲羅をまとい、(訳注=エサとなる腐肉を探して)横ばいでこちょこちょ動く姿に変身するのとは大きく異なる。
カリキマエラの化石には、もう一つ大きな意味合いがある。目と神経組織のいずれもが保存されている、最も若い年代の節足動物の化石でもあるからだ。
脳の部分が確認できる節足動物の化石は、5億年ほど前の層から出土している。そこまで古いと、その生き物の視力まで詳細に調べることはまずできない。
「化石から脳の一部を確認できても、目は残っていない。あるいは、その逆というのがよくある事例だ」とルケはいう。「でも、カリキマエラでは、両方とも可能だった」
カリキマエラが発掘された現場は、もっと多くの有望な化石が埋もれている可能性が高い。
「化石から推定される年代順の生物の進化記録には、分かっているところとそうでないところと、かなりのバラツキがある」とルケは指摘する。「とくに熱帯地方は植物の生育が盛んで、岩石の劣化が著しい。このため、化石の収集やフィールドワークが十分になされていないことが大きく響いている」
そんなところで、素晴らしい発掘現場を見つけ、保存することができたら――「化石による生物の進化の記録を、『新しい目』で研究できるようになる。だじゃれではなくてね」。(抄訳)
(Asher Elbein)©2022 The New York Times
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