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「しがらみ無視してアクセル踏んで」 ガバナンス改革引っ張った前金融庁長官の狙い

令和の時代 日本の社長 更新日: 公開日:
氷見野良三氏。金融庁長官在任中、長官室にて(本人提供)

氷見野良三 前金融庁長官、東京大学公共政策大学院客員教授 2015年に日本で初めてコーポレートガバナンス・コード(企業統治指針)が導入され、日本の企業社会にもガバナンスという言葉が根付いたが、そもそも何のためにあるのか、正しく理解されていないようにも見える。前金融庁長官の氷見野良三さんは「企業の経営陣が、名誉会長や相談役、OBの意見やしがらみは無視して、思いきって経営のアクセルを踏んでもらいたい」と語る。政策立案にあたり、どんなことを考えてきたのか。じっくり話を聞いた。(畑中徹)

■アメリカの当局者との会話

――コーポレートガバナンス・コードが導入されてから6年ほどが経ちました。近年は、いくつかの日本企業でガバナンスのあり方が問われる問題が相次ぎ、改めて注目されました。大蔵省と金融庁で、長年キャリアを重ねてこられた氷見野さんがコーポレートガバナンスについて最初に意識したのは、いつでしたか?

20年ほど前の話ですが、いまでも印象に残っていることがあります。日本の金融危機のさなかに、アメリカの監督当局の人と話をする機会がありました。アメリカの銀行監督の現場経験が長い人です。よもやま話の中で、私は「困った頭取がいて、銀行が本当にまずいことになっている場合に、監督当局としてはどのように対応しているのか?」と聞いてみました。

当時の日本では、役所の課長や局長が、頭取とひざ詰めで向き合っていたのだと思いますが、困った頭取さんほどなかなか納得してもらえない傾向がありますし、仮に後進に道を譲る覚悟を固めていただいても、今度は後任になかなか良い人が見つからないリスクもあるわけです。しかも、役所が口出しすればするほど、銀行が役所の方ばかりを見て仕事するようになる恐れもあります。

そのあたりの事情を説明したところ、そのアメリカの当局の人は、「監督で困った場合は、金融監督当局は取締役会に『この銀行にはこんな問題がある』と、きちんと伝えればそれでよい。問題の所在を知ってしまったからには、それ以降は取締役会の責任になる。頭取の交代や選定を責任をもって進めないと、取締役会自体が責任を問われるので、必死になってやる」と語ってくれました。

私は当惑してしまって、当時の日本の銀行の取締役会は、頭取や会長らに引き上げてもらって偉くなった「内部昇進」の人ばかりで、なかなかそんな風には機能しない、と説明しました。その人との会話は「そりゃ困ったね」といった感じで、そこで終わってしまったのですが、よく分からないながら、どうもアメリカの取締役会というのは日本とは随分違うものらしい、ということが印象に残りました。

取締役会が何のためにあるかといいますと、平時も大事ですが、「会社の執行が機能しなくなったときに危機管理面から非常安全装置として機能するのが取締役会なのかもしれない」といったことを、そのときにぼんやりと感じました。むしろ、危機時の機能に着目して考える必要があるのではないか、ということです。

――金融庁で、ガバナンス改革の実務に関わるようになったのは、いつでしたか?

これは10年前です。2012年夏、総務企画局(当時)審議官になったときです。前任者から「これを参考にしてほしい」と言われたのが、2009年にまとめられた金融審議会の報告書でした。タイトルは「上場会社等のコーポレートガバナンスの強化に向けて」とありまして、いまでいうコーポレートガバナンス・コードと、スチュワードシップ・コードのもとになるような内容も盛り込まれています。実務を担当するにあたり、改めて読んだときに、「日本経済再生のカギになるのではないか」と思いました。

国際監査保証基準委員会の議長を指名するための暫定委員会議長を務めた際、金融国際審議官室で記念撮影。右から4番目が氷見野氏(本人提供)

――コーポレートガバナンス改革の議論は、「アベノミクス」と歩調を合わせるように中心課題に浮上した印象がありました。どんな背景があったのでしょうか?

そのあたりの事情は、私は詳しくありません。政府、金融庁の内外で、いろいろな知恵を持って動いた人たちが存在したのだと思います。

一般的にコーポレートガバナンスというと、株主の側から見たスチュワードシップ・コードと企業の側から見たコーポレートガバナンス・コードが「車の両輪」となります。

ふつうに考えると、企業側のあり方についてコーポレートガバナンス・コードで考え方を整理して、そのうえで株主側から企業にどう働きかけていくかについてスチュワードシップ・コードで示す、という順番でしょう。ところが実際は、だれが考えたのか、すべての上場企業を相手にしなければならないコーポレートガバナンス・コードから始めるのではなく、機関投資家を対象としたスチュワードシップ・コード、すなわち対象先の多くが金融庁の監督下にあるコードの方から着手する、いわば「からめ手から」ともいえる作戦がとられたのです。

13年に、「JAPAN is BACK」と銘打った「日本再興戦略」が打ち出され、スチュワードシップ・コードの検討を始めました。担当の審議官として意識したことは、「アングロサクソン型の株主資本主義」か「日本型のステークホルダー資本主義」か、といったイデオロギー論争のようにしたくないということでした。

専門家の中には、「せっかくのチャンスだから、アングロサクソン型の大胆な改革を進めてはどうか」という意見もありましたが、急進的な改革を試みてアレルギー反応が出て揺り戻しが起きて、改革そのものが止まってしまう、ということは過去にもよくありました。そうならないようにしたいと思いました。

他方、「これで日本もいよいよ変わるのだ」と、海外投資家に思ってもらえるような改革にしなければいけないとも考えました。スチュワードシップ・コードについて検討を始めたとき、この話題は、日本国内でほとんど注目されなかったのですが、海外の関心は高く、欧米の機関投資家が相次いで日本を訪れるようになりました。

彼らとの議論から学ぶところは多かったですし、こちらから改革を売り込むチャンスにもなりました。「パブリックコメント」に付す草案を英文でも出して、英語でもコメントを受け付け回答も英語で出す、という試みは、金融庁ではこのときが最初だったのではないかと思います。

14年2月には、スチュワードシップ・コードの最終版が公表されたのですが、そのときにも注目されず、新聞記事も小さなものでした。その後、東京都内で、世界の機関投資家や年金基金が一堂に会する「国際コーポレート・ガバナンス・ネットワーク(ICGN)」の総会が開かれ、世界中の投資家たちが日本のスチュワードシップ・コードのことを興奮して語り合っていました。

そのあたりから新聞や経済雑誌でも頻繁に取りあげられるようになり、ガバナンス改革がいよいよメインストリームに出てきた印象を持ちました。そして、いよいよコーポレートガバナンス・コードの策定に向けて進んでいきました。

■改革、不祥事対策のためではない

――スチュワードシップ・コード、コーポレートガバナンス・コードという2つのコードを策定するにあたり、政策を立案する立場としては、どのような点が難しかったでしょうか?

コーポレートガバナンスの強化は、14年6月に政府が打ち出した成長戦略の「日本再興戦略2014」に盛り込まれまして、私自身はその時点まで担当しました。その後は監督局に移りましたので、コーポレートガバナンス・コード策定自体は担当していませんが、そこまでの話で申しあげますと、2つあります。

一つは、どこがコードをつくるのかということで、ずいぶんもめました。経産省はガバナンス議論をすでに深めていたので「経産省でやればいい」という意見があり、法務省だ、いや金融庁で、いや東京証券取引所でやればいいじゃないかと、いろんな議論がありました。いまから考えると想像しづらいのですが、仕事の取り合いというよりは、「火中の栗」の押し付け合いともいえました。

当時、私としては、経営者が自分たちで議論して、経団連など経済団体でつくる、という機運が盛りあがったらそれがいいのではないかとも思っていましたが、そうはならなかったです。最終的には、金融庁と東証で担当することになりました。

東証だけを全上場企業の矢面に立たせるのではなく、金融庁もいっしょに取り組んでいくやり方は、結果としてよかったと思います。経産省がいわゆる「伊藤レポート」などで提言を行い、金融庁・東証がコードというソフト・ロー(法的拘束力のない規範)をまとめて、さらに、仕組みが定着した部分については、法務省が会社法に盛り込むというガバナンス改革の「柔構造」ができあがりました。各省庁や東証が役割を分担し、適度に強固な柔構造になったと思います。

14年の日本再興戦略の改訂版には、コーポレートガバナンスの「定義」ともいえる文章が盛り込まれました。それは「企業が、株主をはじめ顧客・従業員・地域社会等の立場を踏まえた上で、透明・公正かつ迅速・果断な意思決定を行うための仕組み」というものです。じつは、多くの学者が定義する内容とも、イギリスのコーポレートガバナンス・コードの定義とも、OECD(経済協力開発機構)による定義とも異なります。

なぜそうしたかということですが、日本でコーポレートガバナンスというと、もっぱらスキャンダルの防止とか不祥事をどう取り締まるかというようなことで議論されることが多かったのです。しかし、当時の日本に必要なのは、もっと別のものではないかと考えました。

つまり、企業経営者が、思いきって経営のアクセルを踏めるようにしたい、それを支えるものにしたいという、そんな思いがこもった「定義」なのです。ガバナンスの仕組みが整備されることで、これを「盾」にしながら、現経営陣が、名誉会長や相談役、OBといったガバナンスの仕組みの「外」にいる人たちの古い意見やしがらみは無視して、存分に力を発揮してもらえるようにしたい、と考えました。

コーポレートガバナンス・コードができたことで、企業の意思決定のプロセスが不必要に複雑になってしまったり、取締役会が経営戦略について話し合うのではなく、コンプラ関連のマイクロマネジメントのような議論ばかりをするようになったりするのでは、企業を萎縮させ停滞させるガバナンス改革になりかねません。それは避けたいと考えました。

いまでも、企業の人たちから「コンプラやリスク管理、ガバナンスなど金融庁ご推奨の仕組みがあまりに煩雑なので、だれも経営リスクをとらなくなった」という話を聞くことがあります。もしそういう機能の仕方をしているとすると、大変残念なことです。

本来は、制約がないからリスクテイクできるということではなく、「ブレーキ」がしっかり機能するからこそ、思いきってアクセルを踏むことができるということのはずだと思います。経営リスクをとるためのコンプライアンスであり、リスク管理であり、ガバナンスだ、と思うのですが。

――日本の経営者の中には、「欧米流」ガバナンスを、金融庁と東京証券取引所にいきなり突きつけられたとの受け止めもありました。この点について、どのようにお考えですか?

実際に経営にあたっている経営者の実感というものは非常に大事で、ご意見をうかがいながら、いいアイデアは積極的に採り入れていくべきだと思います。日本のおかれた状況、企業のおかれた状況をふまえ、それに合ったガバナンスの仕組みを工夫するべきだという点にまったく異論はありません。

ここであえて2つ申しあげますと、ひとつは、いわゆる「欧米流」のガバナンスを絶対視するつもりはなくて、日本の考え方でいいと思える点は、積極的に採り入れてきたつもりだということです。

スチュワードシップ・コードも、コーポレートガバナンス・コードも、中長期的な企業価値の向上をめざすことのほか、株主をはじめ顧客・従業員・地域社会などの立場をふまえることの大切さを繰り返し強調しています。コードは「三方良し」の考え方と整合的だと思います。

――「コーポレートガバナンス・コードは三方良しだ」といっても、日本の経営者たちは納得しないかもしれません。

近江商人の「三方良し」は、「売り手によし、買い手によし、世間によし」ですよね。「売り手によし」は、今の言葉でいえば、高い収益力でしょうし、「買い手によし」は、顧客との共通価値の創造でしょう。「世間によし」は、SDGsの追求にあたるのではないでしょうか。

三方良しに入っていないのは「同業者によし」で、「近江商人の通った後はぺんぺん草も生えない」という言葉もあるようです。これは今の言葉でいえば「ウィナー・テイクス・オール(勝者総取り)」ではないでしょうか。近江商人の教えは、「勝者総取りを実現するためには、収益の追求も、共通価値の創造も、SDGsの追求も徹底してやり遂げないといけない」という厳しい教えだと思います。天秤(てんびん)棒一本から豪商にまでのし上がっていった人たちの覚悟ですから、コーポレートガバナンス・コードよりもずっと厳しいのかもしれません。

もうひとつ申しあげたいのは、「日本的経営とは何か」ということに関して、です。

現在の日本企業の経営のあり方は、日本の資本主義の歴史の中でも特殊なものになっているのではないかと思います。戦前は、株主の力が圧倒的に強かったわけですが、国家総動員体制の確立と、戦後改革で株主の力が大きくそがれて、内部昇進の役員と労働者とメインバンクと監督官庁の力が強くなった。それが、バブル崩壊や銀行危機を経て、労働者の力が昔より小さくなってしまい、メインバンクの力も落ちていきました。さらに規制緩和により監督官庁の力も小さくなりました。

それによって、結局、大企業では内部昇進の役員の人たちが、株主のこともメインバンクのことも監督官庁のことも、昔ほど気にせずに経営できる環境になっているのではないかと思うのです。日本の資本主義の歴史のなかでも内部昇進の役員の自律性が際立って高くなっているのではないか。そういう見方が正しいとするならば、現状を「日本型経営」と呼ぶのは歴史的には正確ではない、と思うのです。

――逆に、海外投資家の間には、日本企業のガバナンスはまだまだ未熟なのでさらなる強化を求めたい、という意見が多いようです。この点はどうお考えですか?

海外投資家から「コーポレートガバナンス改革が不十分だ」という批判があるのは事実です。謙虚に耳を傾けますが、盲従する必要もないでしょう。海外投資家の中には、イギリスのガバナンスを理想とする人がいますが、ガバナンス改革の9年間を見てみると、日経平均株価は約3倍になったのに、イギリスのFTSE100種総合株価指数は、ほぼ横ばいです。どんな企業のあり方をめざすのかを考えていくうえで、いい意見があれば参考にしていく、ということだと思います。

――伝統的な大企業と、創業者が牽引する若い企業では、最適なガバナンスのあり方は異なるかもしれません。一方、企業統治ルールはすべての上場企業に一律に網をかけることになります。この点に不満を抱く経営トップもいます。

創業者である経営者の方々と、内部昇進した経営者の方々では、たしかに、お目にかかって話をしていても、随分違った印象を受けることが多いです。

各企業にとって、一律の答えがあるわけではないからこそ、すべてを会社法で決めるのではなく、ガバナンス・コードにおいて(法律と異なり強制力を持たないが、受け入れない場合はその理由の説明が求められる)「コンプライ・オア・エクスプレイン」(順守か説明か)というやり方をとっているということだと思います。

それでも、いちいちエクスプレイン(説明)させられること自体、大変な負担感があることも事実でしょう。ただ、経営の「非常安全装置」のようなものをきちんと備えておくことは、創業者が経営している企業でも必要なことだと思います。

――東芝や日産自動車、みずほフィナンシャルグループなど、「ガバナンスの優等生」といわれた企業で問題が相次ぎました。なぜ「優等生」が問題を起こすのでしょうか?

個別企業で起きたことをここで論じるだけの知見はありませんが、ガバナンスの事例研究や、実証的な分析を蓄積して、そこから学ぶことは大事だと思います。いま言及された企業の事例についても、よく学んでいくことが大事だろうと思います。

コーポレートガバナンス改革の努力というものは、経営がよくなる可能性を少しでも高めるにはどうしたらよいか、あるいは経営が悪くなる可能性を少しでも小さくする手立てはないものかという問題意識で取り組んできたものだと思います。

コーポレートガバナンス・コードにすべて「コンプライ」すれば、自動的に「理想的な経営」ができあがるとはまったく思っていません。ガバナンスの仕組みは道具であり、手段であり、それをどう使っていくか、使いこなしていくかが大事ではないかと思います。