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人生は、期待と不安の両立だ 絶え間なくアイデア生む「連続起業家」からのメッセージ

令和の時代 日本の社長
グローバルモビリティサービスの中島徳至氏=東京都港区

■まじめさを評価、脱貧困を支える

グローバルモビリティサービスはフィンテックとモビリティーを融合したベンチャー企業。東南アジアや日本で、信用が低く車を買うお金が借りられない低所得者向けにローンが組めるサービスを展開する。

具体的には、エンジンの起動や停止を遠隔制御する全地球測位システム(GPS)・通信機能をのせた専用機を顧客の車に取り付け、ローンの与信管理をサポートする。支払いが滞るとエンジンを遠隔操作で起動制御し、支払いが実行されたら再稼働させる。貸し倒れが減るので、従来の基準だったらローンの与信審査が通らなかった低所得者もローンが組めるうえ、その際の金利も下げられる。貧困から抜け出せない人が経済的に自立するきっかけにつながるという。

――「フィンテック×モビリティー」の事業モデルは、どんなきっかけで思いついたのですか?

フィリピンで目の当たりにした貧困です。この国では貧困から抜け出すため、タクシー運転手など職業ドライバーになる人が多く、9割は貧困といわれます。彼らはローンを活用して車を買ってドライバーとして生計を立てようとするのですが、そもそもローンが組めず車をレンタルで借りるしかありません。

では、誰から借りるかというと、例えば車両のオーナーから借ります。支払いを続けても自分の車にならず、信用データとして蓄積されないので、金融機関からお金を借りることもできません。まじめに働いているけれど、まじめさがデータ化されず、貧困のループから抜け出せません。

グローバルモビリティサービスのサービスを利用する顧客と記念写真に納まる中島徳至氏=同社提供

――まじめさという言葉は印象的です。現地の人たちの「まじめさ」をビジネスで支えたいと考えたわけですね。

仕事でフィリピンに1年ほど住んで生活実態を見てみて、職業ドライバーのまじめさを知りました。それなのに働きが評価されないことを、もどかしく思っていました。それを改善するための仕事は、どこもやらないだろうから、「やるとしたら自分しかいない」と確信を持ったのです。

まず考えたのは「まじめな働きぶり」を可視化することです。ドライバーたちは一度外出すると何をやっているか分からず、ちゃんと働いても正しく評価されません。

「がんばり」を可視化するために自社で開発したものが、エンジンの遠隔起動制御装置です。ローンの支払いが滞ると、遠隔操作で安全に車両を使えなくして、入金が実行されたら使えるようにする。もし支払いがストップすると、アプリで支払いを促し、入金すればすぐ車が動きます。朝の何時に仕事を始めて、何時に終えたというデータも取得できるので、ある意味「タイムカード」のようなものです。走行距離も、毎月の支払い状況も把握できます。

このデータを活用すれば、金融機関にとっても「この人だったらお金を貸しても大丈夫だ」という判断材料になるほか、貸し倒れリスクをおさえられる。さらにローンを完済すれば、ドライバーは車を所有することができます。

グローバルモビリティサービスのサービスを利用する顧客と記念写真に納まる中島徳至氏=同社提供

■メーカー営業からベンチャーへ

――中島さんは事務機器メーカーのサラリーマンからキャリアを始めました。

故郷の岐阜県で複合機の営業をやっていました。大手企業や官公庁の担当です。他社の製品を使っているところに営業をかける仕事で、訪問しても相手にしてもらえないところからのスタートが多く、大変でした。しかし、この仕事には鍛えられました。自分で言うのもなんですが、いまもいろいろな事業アイデアが浮かぶのですが、そのころのソリューション提案型の営業経験が間違いなく糧になっています。

――営業職を経て、1994年にゼロスポーツというベンチャー企業をつくり、98年からは電気自動車(EV)事業をスタートさせました。

ゼロスポーツでは最初、アフターパーツと呼ばれる独自の自動車部品の開発を手がけました。大手系列ではない、独立系パーツメーカーです。このころは「寝る間を惜しんで」仕事をして、大手自動車メーカーの純正品番を150品目取得するほどに成長させ、その取り組みの中で、車の開発意図や設計思想が分かるようになってきました。

電気自動車を開発していたころの中島徳至氏=グローバルモビリティサービス提供

転機は98年でした。大手自動車部品会社から転職してきたあるベテラン技術者から、「EVを開発させてもらえませんか」と話をもちかけられました。これがEVの開発につながるきっかけでした。

■事業譲渡、敗軍の将として

――その後EV事業は拡大しましたが、2011年に最大の転機を迎えました。

10年の夏に、国内の政府系企業と営業車両1000台超という超大型の受注契約を結ぶことができました。ところが、契約から数カ月後、車の設計を土台から変えてほしいという指示を受けました。仕様を変えれば当然、納期の遅れにつながるのですが、この点をめぐって難しい交渉が始まったのです。

決してこちらに非がある対応ではありませんでしたが、先方から巨額の違約金を一方的に請求されたのです。その後、苦渋の決断でありましたが、ゼロスポーツを事業譲渡し、譲渡先でEVの技術開発を続けるという決断をしました。

――起業家として大きな挫折を経験されたのですね。

あのときの経験は生涯忘れることができません。大きな企業から見れば、私たちベンチャー企業は「下請け」のような存在だったのかもしれません。とにかく、悔しい思いを味わいました。

そもそも、大きな企業相手に「身の丈に合わない」ような、超大型のオーダーをとってきたこと自体が間違いじゃなかったのかという批判も受けました。でも、スタートアップは「身の丈に合わない」オーダーを獲得して成長するものです。

会社をたたむ決断をしてからは、銀行を回ったり従業員の再雇用のお願いに行ったりと大変な思いもしました。しかし、当時の経験が、いまの仕事の原動力になっていることは間違いありません。

――ゼロスポーツ社をたたんでからは、どうしたのですか?

四国地方の会社にEV部門を譲渡したのですが、この会社に雇われることになりました。いわば敗軍の将として、その会社に入りました。40代前半で再びサラリーマンとなりまして、愛媛で寮生活を始めました。亀老山という山があるのですが、そこに登って来島海峡大橋を眺めていると、涙がとまらなかったですね。仕事で苦しくなると、休みの日にいつも行っていました。いまの会社を始めてからも、何かの節目には出かけて気持ちを新たにします。

その会社ではEV部門のマーケティング責任者を拝命しました。アジア開発銀行(ADB)が関わっていたトライシクル(フィリピンの三輪タクシー)のEV化事業で、私がリーダーとなったコンソーシアムが3000台の受注を得ました。これをきっかけに、フィリピンで事業を興すことになったのです。

事業を立ち上げた後、会社から「本社の経営に戻ってくれ」と言われましたが、「フィリピンでやらなければならないことがある」と伝えて理解いただき、いまの会社を起業するに至りました。

――挫折を味わいながらも再び起業した原動力はどこにあったのでしょうか?

20代のころ、最初に起業したときには野心が強かったです。もともと劣等感が強かったので、人に負けたくないと思っていました。いまの会社(GMS)をつくったときは、野心や私心ではなく、社会が必要とする会社をつくりたいという気持ちでした。3社目の起業でしたが、「経営者人生の集大成にしたい」と思いました。

■「社会起業家」、あまり好きでない呼ばれ方

――社会課題解決に挑む起業家のことを社会起業家と表現しますが、中島さんは自身を社会起業家だと思いますか?

私自身は「社会起業家」という言葉は、あまり好きではありません。「もうけなくてもいい」というイメージがどこかにつきまとうからです。かつてのソニーやパナソニックにしても当時の社会が抱えている課題解決のために会社ができて、課題解決を実現し、しっかり利益をあげてきたわけです。その意味では、まさに社会課題解決のベンチャー企業であり、創業者らは社会起業家だったはずです。

起業とは、そもそも社会課題の解決だと思うのです。ベンチャーが大企業になっていくなかで、「うちの会社は社会に貢献できているか?」と自問することがあるかもしれませんが、少なくとも創業の時点では何らかの社会課題を解決していこうとしているはずです。

社会起業家という言葉があまり好きではないと言いながら、周りからはよく、「中島は社会起業家だ」と言われます。自分自身のことは、自分から発信することではなく、周囲の方に評価いただくことだと思っています。

――日本も、アメリカのように起業が普通のことになってきて、エコシステムができたといえるのでしょうか?

アメリカは、起業における「正のスパイラル」がすごいですが、成功者が多い半面、失敗者も多い。失敗ということでいうと、アメリカの場合、一度や二度は失敗した方が起業家としての価値は上がります。そこが日本との大きな違いです。よく、日本でもスタートアップのエコシステムがやっとできあがったと言われますが、私はまだまだだと思います。

多くの会社ができて、一方でたくさんの会社がダメになっていく。ベンチャーのビジネスって、そういうものですよね。たくさん誕生するけれど、ダメになる会社も多い。それぐらい成功確率は低いものです。それなのに、「失敗した者」「倒れた会社」が注目されるかというと注目されません。「失敗」に光があたらないのは、おかしいのではないかと思っています。

――「失敗」がマイナスにしかならず、起業家のプラスにならないのですね。

起業で失敗すると、金融機関などから「あの起業家はよくない」といったレッテルを貼られてしまうこともあります。そんな評判が付くと、再起が厳しくなってしまう。失敗したからもう支援しませんではなく、「前回の挑戦では、あの水準にたどり着いたのか。次はもっとがんばろう」と、前向きに評価される世界をつくらないといけない。

アメリカのように、果敢な挑戦、そして失敗を許容する文化が生まれてこそスタートアップのエコシステムができたといえます。日本に絶対、必要なことです。いまは、失敗を許容する文化がなさすぎるのです。

起業で失敗した人がいると、その人に連絡をとって声をかけています。私自身、失敗を経験しているので、何かできることはないかと思うのです。起業家は、日本という国にとって財産だと思います。だから、一度失敗したぐらいで、そこで終わりになってもらっては困るのです。

――中島さんは、日本では珍しいシリアルアントレプレナーです。日本に少ない理由は何でしょうか?

日本に少ないのは、「志」に関係していると思います。起業し、うまく上場して「一丁上がり」で終わる人が多いです。一度成功して、成功体験を味わって、ある程度のお金をつかんだのであれば、そのお金を活用し、前の仕事ではできなかったような高いステージの仕事をされたらいいと思います。そうすれば起業の「いい循環」が生まれます。

一度成功したあと「何をめざすか」が大事だと思います。最初の成功にとどまるのか、とどまらないかは志の問題で、成功した会社を離れて新しいビジネスに挑んでいる人を見ると、自分自身の中に止められないエネルギーがあるのだなと感じます。東証マザーズで上場できたからといって満足せず、30代、40代の年齢でしたら、吸収力が高く、影響力も発信力も備わっています。もっといろいろできるじゃないですかと思うのです。

――日本はあまり起業家を尊重しない風土があるようにも思います。

起業家は会社では紛れもないリーダーですが、社会でもリーダーなのかというと必ずしもそうではない。起業家自身も、社会におけるリーダー像をイメージできていない。経団連で活躍するユーグレナ社長の出雲充さんや、経済同友会の副代表幹事を務めるオイシックス・ラ・大地社長の高島宏平さんは珍しいケースです。もっと社会におけるリーダーがどんどん出てきていいと思います。

――起業を志す若い世代にメッセージをお願いします。

若いころは将来への「期待」があって、かたや「不安」があります。期待すると「本当にできるかな」と不安がどんどん高まってくるものです。「人生は期待と不安の両立だよ」と申しあげたいです。私自身、そう思って生きてきました。

どうして不安になるかというと「何かをやろう」とするから不安になるのです。その何かが実現できると、その時点ではすごくうれしいけれど、「今度はもっと上をめざそう」と考えると、またまた不安がわき出てくる。人生って、常にこのバランスをどうとっていくか、だと思っています。そうして大人になっていくのでしょう。「この不安からは一生逃げられないぞ」ということを私はいつも考えています。