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ブレイクダンサー石川勝之、世界の頂点を極めた先に見る「次の景色」

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
音楽が流れると途切れなくムーブ(踊り)が思い浮かぶという。練習の成果だが、「楽しくて努力だと思ったことがない」=瀬戸口翼撮影

米ニューヨークのストリートで1970年代に生まれた若者文化、ブレイクダンス(ブレイキン)。ヒップホップの音楽に乗せ、1対1などでダイナミックなダンスを見せ合うバトルが大きな魅力だ。2024年パリ五輪の追加種目となり、認知度がぐんと高まった。
その牽引(けんいん)者のひとりが、ブレイクダンサー(男性はB-BOY、女性はB-GIRL)の石川勝之(ダンサーネーム「KATSU ONE(カツワン)」)。39歳。「不良のダンス」と呼ばれた時代からブレイキンとともに歩んできた。「僕を育ててくれたブレイキンに恩返しがしたい」。その愛はどこまでも深い。

中学生でブレイキンに出合った。「人ができないような動きをしてみたい」とマイケル・ジャクソンのムーンウォークにはまっていた頃。テレビで頭や肩を使って力強く回転するダンスを見かけ、衝撃を受けた。「めっちゃかっこいいな」

ブレイキンには、立って踊る「トップロック」、かがんだ状態で足を動かす「フットワーク」、頭や肩、背中などで回転したり跳びはねたりする「パワームーブ」、体の動きをピタッと止める「フリーズ」の四つの基本的な動きがある。当時はそんな動きの名前も、ブレイキンという名前も知らないまま、放課後の体育館などで友人らと遊び半分で踊った。

本格的にやってみたい。その思いは体育教師を目指して大学に進学した後に実現した。ダンス教室に通いながら、友人らと大学や路上で練習に明け暮れた。「毎日7、8時間、時間があれば練習するという生活だった」。ブレイキンの世界大会でアジアのチームとして初めて優勝した経験があり、教室の講師だった唐澤剛史(TSUYOSHI、44)は「感覚で踊る生徒が多いなかで、真面目に質問してメモを取る姿が印象的だった。足を振る角度や体の支え方など踏み込んだ内容が多く、自分で考えて質問しているとよく分かった」と振り返る。

■海外に広がるB―BOYの輪

長期休みのたびに海外を訪れた大学時代。ノルウェーに集まった各国のB-BOYらと(本人提供)

ダンスの腕を磨きながら石川が出合ったもう一つのものが海外だ。大学1年の冬休み、ブレイキンの本場・米国を訪れた。ロサンゼルスで開かれた世界大会に出場する友人らのチームに同行。ビデオでしか見たことがなかったスーパースターたちのダンスを目の当たりにして、向上心をかき立てられた。

当初は見学だけの予定が、会場で仲良くなった日本人や韓国人のダンサーと即席チームを作り、飛び入り参加。予選落ちはしたものの、「アメリカの人たちは下手でもガンガン前に出てきて、その気持ちに心を打たれた。ダンスは下手でも気持ちで行けばいいと思えた」。

続く春休みは単身でオーストラリア・シドニーへ。街行く人に声をかけてダンサーたちが練習するスタジオにたどり着き、輪に加わった。練習後も交流は続く。「身ぶり手ぶりで、うちにメシ食いに来いよとか、うち泊まっていいよとか。同じB-BOYだからこそ得られた経験が心に刺さった」

長期休みのたびに海外を訪れた大学時代。ノルウェーのB-BOYらと(本人提供)
大学時代から通ったオーストラリア。ブリスベンのB-BOYらと(本人提供)

仲間ができたシドニーを、その後も長期休みのたびに訪れ、練習を積んだ。気づくと大学4年生。同級生は就職活動を終えていた。その時は「ちょっと焦った」が、「今しかできないことをしよう」と思い直し、卒業後もダンスを続けることに。アルバイトでお金をため、韓国や米国、デンマーク、ノルウェーにも足を延ばし、仲間を増やした。

当然のように両親や親戚は心配した。「親の金で大学に行って、何、ダンスなんかやっているんだ」「食べていけるのか」。それでも大学卒業の1年後、ニュージーランドであった大会で優勝し、地元紙の1面を飾ると風向きが変わった。「マジでやっているんだな、とりあえず頑張れ、となってくれた」

この大会はダンサーとしての転機にもなった。「世界最高峰のチーム」とも呼ばれる「MIGHTY ZULU KINGZ(MZK)」のリーダーが審査員として来ており、新メンバーに、とスカウトされたのだ。自信をつけ、ダンス一本の生活に切り替えた。

世界で勝負する石川のダンスの特長は音楽性だ。MZKの現リーダー、タイクアン(TYQUAN、39)は「個性豊かで音楽と一体になる。ブレイキンの神髄を体現しているダンスだ」。さらに、自らも世界大会で優勝を重ねる後輩ダンサーの津雲勇太(STEEZ、33)は「遊び心」も挙げる。「本気でふざけられるし、一緒に踊る相手の動きにうまく反応できる。キャラクターが際だっているので、まねできない」

07年には、米国の権威ある大会「FREESTYLE SESSION」で優勝。その後も、W杯とも位置づけられる「R-16」(09年)など、多くの世界大会で優勝を重ね、各地の大会からゲスト出演や審査員の依頼が舞い込んだ。

■スポーツ化が新たな挑戦

ダンサーとしての全盛期。日本人チームでも優勝を重ねた(本人提供)

ただ、ダンサーとしての夢をかなえるなかで、ダンス一本の生き方を続けることに疑問も感じ始めた。生活のため、実際に踊ることに割ける時間は限られる。

30歳を目前にした10年、違う環境を求め、ワーキングホリデーでオーストラリアに移住。そのなかで心を動かされたのが、旅行先のベトナムで出会ったストリートチルドレンだった。物売りの少年と仲良くなり、1個2円ほどの菓子を買おうとしたら、地元の友人に止められた。「『その金は子どもを使うマネジャーに渡り、ストリートの子どもが増えるだけだ』と言われ、貧困の実態を知らなかった自分を恥じた」。ブレイキンを生んだストリート文化をもっと知り、発展させ、子どもたちの力にもなりたいと、帰国後の13年、ブレイキンのイベント企画などをてがける会社「IAM」を設立。合宿形式で子どもにダンスを指導したりしている。

ブレイキンが、ユース五輪の正式競技になってからは、ブレイキンのスポーツ化に深く関わる。17年に日本ダンススポーツ連盟(JDSF)に「ブレイクダンス部」が新設され、初代部長(現本部長)に就任。JDSF専務理事の山田淳は「広いネットワークがあり、行動力もある。世界をまとめられる人」と信頼を寄せる。

スポーツになり審査に点数制が取り入れられると、個性や多様性を重視するブレイキンの文化が損なわれる─。スポーツ化をめぐって、仲間や先輩からそんな声が上がると説得に回った。「五輪はたくさんある大会の一つ。新しいムーブメントができれば、逆にラッキーだと思う」と期待を語る。

パリ五輪に向け、選手の支援体制の強化が目下の課題。踊ることよりも裏方の仕事が増えてきたが、ブレイキンにかける熱量の大きさは健在だ。「ブレイキンの魅力は?」と尋ねると、「一言では難しいな」と考え込んだ後でこう答えた。「一つが出会い。その中で学びが得られる。この文化は想像するよりもパワーを持っていることを、みんなに知ってほしい」(文中敬称略)

ブレイキンのワークショップで。子どもたちへの指導に熱が入る=瀬戸口翼撮影

■Profile

  • 1981 福井県生まれ。川崎市で育つ
  • 2000 日本体育大に入学。本格的にブレイキンを始める
  • 2005 ニュージーランドで開かれた国際大会で初優勝
  • 2007 米国での大会「FREESTYLE SESSION」で優勝
  • 2009 韓国で開催の「R-16」で優勝
  • 2010 オーストラリアに移住。13年に永住権を取得し帰国
  • 2013 株式会社「IAM(アイアム)」を設立
  • 2017 公益社団法人「日本ダンススポーツ連盟」のブレイクダンス部長(現・本部長)に就任
  • 2018 ユース五輪ブエノスアイレス大会でブレイキン日本代表監督を務める
  • 2020 ブレイキンがパリ五輪(24年)の追加種目として正式採用

練習場所は聖地に…ブレイキンを本格的に始めた頃の練習拠点は、JR武蔵溝ノ口駅前(川崎市)。高校への通学経路にあり、大学入学後、ダンスグループの活動に加わった。ストリートダンスが盛んな川崎市の中でも、「溝口(みぞのくち)」をかつての拠点として世界で活躍するダンサーは多く、海外でも知られる「ブレイキンの聖地」となっている。

発祥の地を訪ね…ブレイキンのユース五輪への採用が決まり、スポーツ化の是非が議論されるなか、石川が訪ねたのがニューヨーク・サウスブロンクス地区。縄張り争いの暴力をやめようとダンスバトルを始めた当時のギャングに会い、意見を求めた。「(スポーツ化は)いいじゃないか。私たちはブレイキンのおかげで自由になれたんだ。そういう考えを持った君がやるべきだ」と言われ、迷いが吹き飛んだという。