「ああ、これは終わった、私のビジネスは死んだと思いました」
自動車販売店「オートバーン・モーターズ」のオーナー、ゲーリー・ホンさん(49)はこう振り返った。ゲーリーさんはシンガポール中心部から車で15分ほどのブキ・メラ地区で、例の自動販売機の店を経営している。
2020年4月。シンガポール政府は新型コロナ対策のための外出制限を発表した。
生活必需品を除くすべての店舗は閉鎖が求められ、通勤も原則禁止で、認められるのは運動のための外出だけ。結果的に、外出制限は約2カ月間続いた。
「コロナ禍は長引きそうだった。こんな時に、車に乗りたいと考えるひとなんていないと思った」とゲーリーさんは言う。
彼の店は「スーパーカーの自販機」として親しまれている。店舗の外観は、まるでミニカーのショーケース。高さ約45mのビルに15層のフロアが設けられている。
1階のパネルを操作すると、自販機よろしくエレベーターに乗った高級車がビューンと下りてくる。コロナ前は、観光客がわざわざ見に来るほどの名所だった。
2017年に誕生した「自販機」は「失敗から生まれた」(ゲーリーさん)という。
彼がそれまで営んでいたのは小さな店だった。1989年の創業以来使っており、もともとは一般車のディーラーだった。それがシンガポールの発展とともに顧客の所得がのび、高級車を扱うようになっていた。
手狭になったうえにポルシェやランボルギーニなどの扱いも増えていたから、それに見合ったショールームにしたい。そう考えていたところ、当時の顧客のひとりが土地を譲ってくれる話があり、飛びついた。
だが、設計段階になって問題が浮かび上がった。
「建築士が、残念だけど車がほとんど置けない、と言ってきて頭を抱えました」
ゲーリーさんはそう明かす。「横に広げられないなら、縦にしよう」と建築士に相談したが、「外から車が見えなくなる。それではショールームとは言えないだろう」と言われ、身もふたもない。
すでに資金を借りて土地を手に入れていた。いまさら白紙にはできない。悩みに悩んでいたときに、ふと思い出したのが、おもちゃ売り場にあるトミカのミニカーのショーケースだった。
同じようにガラス張りのビルに車を並べたら面白いのでは……。
車をビルに収めるのは、技術的には難しくなかった。タワー型の立体駐車場の技術を応用できたからだ。その壁面をガラス張りにすれば、外からも見える。
どうせなら自動販売機っぽく、タッチパネルを備え付けて在庫の車を見られるようにした。
「クレイジー」
建築士からはそう言われたが、勝算はあった。アイデアを顧客に話すと、みんなおもしろがってくれたからだ。
実際に開業してみると国内外のメディアが集まり、その報道を見たかつての顧客が、次々に連絡をしてきた。
「もともとは問題解決の道を考えていて、思いついたこと。でも、ひとと違ったことやユニークな体験がビジネスには重要だと改めて思います」。ゲーリーさんはそう振り返る。
実際にどんな風に売っているのかを説明してもらった。
ガレージの1階に置かれたタッチパネルを操作すると、格納されている車の一覧表示へ。好きな車を選ぶと、内装などの画像が出てくる。
「一番高い車を見ようか」
ゲーリーさんがそう言って選んだのは、1936年製メルセデス500Kロードスター。20世紀を代表する伝説のカーデザイナー、フリードリッヒ・ガイガーが手がけた名車だ。
ただ、スイッチポンで車が出てくるわけではなく、ここで車を選んだうえでモニターの備えられた小部屋へ。ゲーリーさんが手元のタブレットを操作し、500Kの動画の上映が始まった。
動画がクライマックスに近づくと、部屋のガラス窓の向こうにシューッと実車が下りてきた。まるで動画から飛び出てきたかのように見える。
ボディーの赤が目にまばゆい。食い入るように見つめていると「きれいでしょう。買うひと、いませんか」とゲーリーさん。価格を聞くと360万シンガポールドル(約2億9千万円)だという。いやはや……。
そんな「自販機」モデルは、商談が短くなる効果を生んだという。ディーラーにやってくる顧客は多くの場合、ほしい車を「予習」してくる。あとはその背中をどう押すか。
「自販機」の演出は、それに一役も二役も買った。中には店に来て5分でポルシェ911を買っていった常連もいる。
あるいは別の顧客は、この演出で中古のランボルギーニ・アヴェンタドールを見て「移転前の店で売っていたものよりも状態がいいね」と言った。
「実は、そのお客さんが前に見たのとまったく同じ車。1回販売した後、数年して再び買い戻した車だったんだけどね」。ゲーリーさんがいたずらっぽく笑った。
順調だったビジネスに暗雲が垂れ込めたのは昨年はじめ。コロナの影響で売れゆきが鈍りはじめた。
決定的だったのは4月7日から約2カ月間の政府の外出制限策。店舗は閉鎖を求められた。世界全体が沈滞ムードにあるなか、車が売れていくとはとても思えなかった。
だが、その後に「異変」に気づく。6月下旬にようやく営業を再開すると、すぐに客足が戻ってきた。
最初は常連、さらには新しい顧客。「最初は不思議だったんですよね。なんでみんなわざわざ来てくれるんだろうと」
話をするうちに理由が分かってきた。コロナ対策のための国境封鎖でシンガポールから出られないひとがたくさんいたのだ。
たとえば、ふだんはバカンスを海外で過ごす富裕層のシンガポール人たち。国内で過ごす時間が増えたことで、関心が高級車に向かった。さらに海外から赴任してきた大企業の役員クラスが、車を買いに来るようになった。
もともと海外企業のトップ層は、商いが難しい相手だった。シンガポールは税金が高いこともあって車が高い。仕様が異なるため厳密には比べられないが、一番安いカローラクラスの小型車でも700~800万円レベル。プリウスの現地仕様車「プリウスプラス」なら、軽く1千万円超えだ。
レクサスのウェブサイトをのぞけば、IS300hが21万シンガポールドル(約1680万円)、LS500hが57万シンガポールドル(約4560万円)。感覚的に、日本の2~3倍の値づけがされている。海外から来るひとたちは、大抵この値づけに驚く。
さらに海外企業の役員は出張も多いし、一時帰国も頻繁だ。「なぜ高いカネを払って、ほとんど乗らない車を買う必要があるのか」という声が多かった。
だがこうしたひとたちも、海外に出られなくなると事情が変わる。公共交通機関は便利だが、他人との接触は避けられない。どうせ1年も2年も海外に行けないなら、車を買ってみよう。そんな需要が出てきているという。
シンガポール全体を見ても、その傾向がある。自動車の小売物価指数をみると、2017を100として、昨年5月は13まで低下。だが7月以降は75ほどまで戻っている。
さらに昨年9月以降は、高級車の価格が上がってきた。コロナ禍で生産が限られる一方で需要は堅調。世界中で高級車に関心を向ける人が増えたからだ。こうなると、さらなる値上がりの前に買っておこうという心理が働く。
「おかげで、ありがたいことに売り上げはコロナ前の8~9割の水準を維持できている」というゲーリーさん。売れ筋は新旧のポルシェ911だ。
でも「コロナで苦しんでいる人は多く、高級車に乗って楽しもう、という雰囲気ではない。そのことはちゃんと理解しておかなくてはいけない」と、積極的な宣伝は控えている。
一方で未来への投資は忘れていない。シンガポール中心部にもうひとつの「自販機」を建設中だ。コロナ前からの計画で、多少の遅れはあるもののできる限り進めているという。
めざすのは、シニア層でも若者でも、車好きが集う交流の拠点をつくること。「単に車を売るのではなくて、コミュニティーを育てていきたい」と意気込む。
コロナで計画を延期することも考えたが、その後の売れ行きから挑戦するなら今だと考えるようになった。
「もちろん不安はある。それでも、ビジネスで生き残っていくためには、どこかで人と違った決断をしなくてはいけない。いま頑張ることで、コロナ禍が終わったときに一歩早くスタートを切れると思っています」