昨年のインディは予選で初の最前列。レース序盤はライバルを後ろからじっくり観察し、路面や燃費の状況からタイヤの内圧などを微調整。終盤、「完璧と言えるハンドリングに仕上げた」。
昨年を含め6度のシリーズ王者スコット・ディクソンとの真っ向勝負になったが、完勝。優勝を確実にしたゴール直前、無線を切って絶叫し、喜びを爆発させた。この勝利を最も喜んだ一人が、チームオーナーのボビー・レイホール(68)。自らも優勝経験がある米国の偉大なドライバーだ。2012年、琢磨はレイホールのチームに加入。インディ500の最終ラップに2位で入ったが、トップを抜こうとしてクラッシュ。無念のリタイアに終わった。
「No Attack No Chance」(挑戦しなければチャンスはない)が琢磨の信条。後悔はなかったが、チーム全員が落胆したことも分かっていた。そんな琢磨をレイホールはぎゅっと抱きしめ、「お前をとても誇りに思っている」とたたえた。
17年に別の強豪チームで初優勝。そしてレイホールのもとに戻って3年目。琢磨は「8年越しの夢をかなえた」と喜んだ。レイホールも「12年は2位でもすごいことだった。でも、そこで勝利に挑むドライバーがほしいんだ。だからこそ昨年、もっとずっと甘い勝利を手にできた」と誇りに思う。
シリーズを通して通算6勝。中でもインディ500は19年にも3位に入り、際だった速さを見せている。他のレースより距離が倍ほどあり、走りながら先を読み、マシンをつくり上げる能力が生きている。今年44歳。シリーズにフル参戦するドライバーで最年長になってもどん欲だ。「夢だし目標なので3勝目を狙いたい。それができたら当然、4勝目にいきたい」
■「眼光が一人だけ違う」
物体がこれほどの加速をできるんだ――。10歳で初めて見たF1日本グランプリの衝撃をいまも鮮明に覚えている。時速200キロ以上でマシンが目の前を加速していき、わずかに遅れて爆音を浴びた。その迫力に興奮し、F1レーサーへの夢を描いた。
小さい頃から「車輪のある乗りもの」が好きだった。父の車に乗ると、助手席に付けたおもちゃのハンドルを握った。自転車に乗れば友達とスピードを競った。高校3年生のとき、スポーツ推薦を目指すため、自転車部をつくりたいと担任の大澤進(69)に相談した。まずは同好会から始めるルールだったが、大澤は「全ての責任を負う」と部の顧問を引き受けた。
琢磨はインターハイで見事優勝。スポーツ推薦で早稲田大学に入ってからも、全日本学生選手権で優勝した。五輪出場も夢ではなかった。大澤は「ステップアップには何が必要か分かっていて、独自のプランをつくる力があった」と感心する。
ただ、F1への情熱はいつも胸にあった。ある日、雑誌で鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS)の募集を見た。年齢制限は20歳。「その年が唯一のチャンス。始めるしかなかった」
レースの世界では4歳、5歳から始めるドライバーは珍しくない。熱意を訴えて競争率10倍の難関を突破したが、琢磨への注目度は低かった。ところが、身体測定の日、SRSでマシン整備を担当する百田義弘は、琢磨を撮影したカメラマンに声をかけられた。「すごい子がいるよ。眼光が一人だけ違う」
百田は多くのレースに勝利した名エンジニア。経歴を見て、「もったいない。四輪はやめた方がいいよ」と琢磨に言った。だが、琢磨は1人で夜遅くまで走行データをチェックするなど人一倍研究熱心。ぐんぐん腕を上げ、講師より速く走ることもあった。「がむしゃらに見えるかもしれないが、すごく考え、壁を越えるためにまっすぐに行動している」
首席で卒業後、モータースポーツの本場、英国へ。F1登竜門と呼ばれた英国F3に挑戦。1年目から年間3位で、勝利と予選最速の数はチャンピオンを上回り、F1のジョーダン・ホンダをテストするチャンスをつかんだ。憧れのコックピットに座り、アクセルを踏む。猛烈な加速がいつまでも続いた。まさに鈴鹿と同じ衝撃。その激しい動きをしっかり体に記憶させた。「次に乗る機会があれば、もっともっといける」。そんな自信も得た。
02年にF1デビュー。四輪に乗り始めてわずか5年の快進撃だ。資金不足でテストもできないなか、日本グランプリは5位でゴールして初入賞。「これがF1の面白さだ」と喜んだ。スタンドを揺さぶるほどの大歓声が琢磨の胸を熱くした。
その後、3位表彰台を獲得し、日本人初優勝への期待が高まった。だが、チームで2人の正ドライバーの座をめぐる不運もあり、不完全燃焼でF1を去った。世界最高の舞台ではレース経験が圧倒的に足りなかった。「悔しいけど、結果を残せなかったのも事実。チームメートに純粋なスピードで負けた記憶はないが、レース全体のマネジメントでは全然、歯が立たなかった」
■経験と才能、努力がいま結果に
レース=F1で、それ以外は見えなかった。そんな認識を変えたのがインディ500。最高時速380キロを超える世界は、ベテランドライバーでも恐怖を感じるほど。「挑戦したい」と意欲がわいてきた。F1はチーム間でマシンの性能差が大きく、ドライバーが正当に評価されにくい面がある。インディカーは全チームが同じ車体で、現在はエンジンも2種類。チーム態勢に差はあっても、「最後まで誰が勝つか分からないのが大きな魅力」という。
ただ、琢磨がインディで成功した理由を、ホンダF1テクニカルディレクターの田辺豊治は「ドライバーとしての経験と才能、そして努力が、いま結果として見えてきた。F1とかインディカーとかは関係ない」という。二つのシリーズをともに戦い、琢磨が最も信頼するエンジニアの一人。田辺も、データを見ながら一緒に速さを追求する琢磨を、稀有なドライバーとして頼りにした。
インディ500の初優勝後、琢磨が言った言葉が忘れられない。「田辺さん、夢はいつか叶うんですよ」
次の世代の成長を応援したいという思いも強い。19年、米国でレースを続けながら、母校SRSの校長に就任した。今年は卒業生の角田裕毅が7年ぶりの日本人F1ドライバーとして走る。最高の日本人ドライバーが出てくることを夢見て、その手伝いをすることが自分の使命であり、夢の一つだと信じている。
応援の流儀もやっぱり琢磨流だ。「走らせ方を教えるよりも、自分が挑戦している姿をリアルタイムに感じてほしい」。まだまだコックピットを譲る気はない。(文中敬称略)
■Profile
- 1977 東京都新宿区で生まれる
- 1987 F1日本グランプリを鈴鹿サーキットで初めて観戦
- 1994 和光高校3年のときに自転車部をつくり、インターハイ優勝
- 1995 早稲田大学入学。インターカレッジ2位。翌年、全日本学生選手権優勝
- 1997 鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS)入校。首席で卒業し、翌年、英国へ
- 2000 英国F3挑戦。F1のジョーダン・ホンダをテスト。翌年は英F3チャンピオンに
- 2002 ジョーダン・ホンダからF1参戦。日本グランプリは5位で初入賞
- 2004 BARホンダの正ドライバーに。米国グランプリは3位で初の表彰台
- 2008 シーズン途中でスーパーアグリが財政難を理由に撤退。F1のシートを失う
- 2010 インディカー・シリーズに参戦。翌年、初のポールポジションを獲得
- 2013 インディカー・シリーズで初優勝
- 2017 インディ500で初優勝
- 2020 インディ500で2回目の優勝
グリコポーズが恒例に?…インディ500では、勝者が牛乳を飲むのが恒例だ。1936年優勝のルイス・メイヤーが牛乳を飲んだ写真を、牛乳会社幹部が新聞で見たのがきっかけ。昨年は、琢磨の「グリコポーズ」が話題になった。ゴール後、マシンの上に立ち、両手と左足を上げた。前回優勝のとき、「片足を上げれば……」とファンがSNSに書いたのを思い出した。米国でも話題になっており、新たな定番になるかも。
ラーメンで心を一つに…昨年のインディ500の前、琢磨はマシンのスタッフと家族を招待し、ラーメンを食べた。「コロナの状況で頑張っている思いを共有し、すごく大きな結束力が生まれた」。2019年、レース中の接触事故をきっかけに猛烈なバッシングを受けた時も、支えてくれたのがこのチーム。それだけに2回目の優勝は特別なものになった。