ーー日本でデビューしたのは1998年でした。韓国が日本の映画や音楽などの大衆文化を受け入れ始めた時期ですね。
キム・ヨンジャさんをはじめとした演歌の先輩方の後に続く形でした。前年に韓国でデビューし、すでにたくさんのファンの方々から支持をいただいていましたが、日本では新人です。それこそ、2度目のデビューといった心境でした。
ーー日本のアイドルと比較され「韓国のSPEED」と紹介されることもありました。
SPEEDはもちろん知っていましたし、安室奈美恵さん、ダンスグループのMAXのことも思い出します。MISIAさんは「つつみ込むように…」をカバーさせていただいたので、とても特別なアーティストです。クリスタル・ケイさんとは韓国の歌番組で一緒にステージにあがる準備をしていたのですが、結局できなくなってしまい、残念でした。
ーー韓国アイドルはデビュー前に長期間、歌やダンスだけでなく言語などの集中的なトレーニングを受けるそうですね。
(当時所属していた)SMエンターテインメントでデビュー前に受けたトレーニングは1年だけです。ただ、それ以前の9年間、スターになる日を想像して、一日も休むことなく毎日4~5時間練習していました。メンバーのユジンやシューに比べて、私はそんなに日本語が上手ではありませんでしたが、リードボーカルとして歌のパートがたくさんありました。絶えず努力をして、文化的な違いの中で多くのことを蓄積する時期でした。
ーーどんな違いがありましたか?
日本では有名なアーティストが(テレビやコンサート会場以外に)クラブでも活動していましたが、韓国ではイメージ的に考えられないことでした。六本木の「ヴェルファーレ」でデビューシングル「めぐりあう世界」の販売公演をした時、悪天候の中、お客さんや音楽関係者の方々が1000人以上も集まってくれて、本当に驚きました。多様なライブ形式と、状況ごとに声をコントロールするすべを学ぶことができました。
また、韓国では完成された曲をひたすら練習しましたが、日本では楽器の編成からコーラスラインにまで携わることができました。アーティストとして尊重してもらえたおかげでプロデュース能力を高められ、その後の活動に役立ちました。
ーー戸惑いもあったのでは?
仕事の際に、電車に乗って移動するのが驚きでした。外でミュージックビデオの撮影をしていたら、一般の方々が集まりすぎて中断したこともありました。マネジャーさんが荷物を持ちきれなくて、私たちメンバーで化粧箱を持ち運んだこともあります。若かったから思うところもありましたが、いま振り返るとすべてが貴重な記憶で、楽しい光景です。
ーー韓国では髪を派手に染めて放送局の番組に出られなかった経験があると聞きました。
当時の韓国では、露出の多い服装も制限されているほどでした。日本で活動する際にノースリーブを着ることになり、驚いてしまいました。逆に、日本の化粧はまつげをつけるだけの「ナチュラルスタイル」が多かった。いろんな文化的な面で、日本は進んでいるなあと感じました。
私たちからすると、日本のマネジメントシステムは初めてでしたが、日本にとっても私たちが初めての韓国ガールズグループでした。お互いに適応していく時期だったと思います。それでも、日本の方々は私たちをアーティストとして扱ってくれたので、大きく成長できました。その分、韓国の歌手の誠実さをたくさんお見せしたくて、本当に一生懸命、活動しました。
ーー2002年に「S.E.S.」が解散した後で韓流が生まれました。
私はグループ解散後、歌手やミュージカル俳優として活動しています。アイドルという存在が、一瞬のきらめきを残してすぐに消えてしまうものではなく、アーティストとして、大衆文化の芸術家として、長らく活動できるものだと伝えることができたと思います。また、ガールズグループの後輩たちが、『S.E.S.』をロールモデルとして言及してくれることは、私が20代のころに願っていたことでもあるんです。
ーーどういうことですか?
わたしが歌手を目指したきっかけに、幼い頃の経験があります。「パダ」(韓国語で海の意味)という名前は海のある村で育ったことからつけたのですが、上のきょうだいと年が離れていて、周りにも遊ぶ場所がなかったので、歌が唯一の「遊び」でした。小学校に入ると、先生方が私の才能を見いだしてくれ、ほかにも、応援してくれる人たちがいたおかげで、歌手への道を歩むようになりました。スターになって恩返ししなければと考えると同時に、いつか私も、誰かを同じように支えられたらと思いました。
ーーデビュー当時と今とで心境の変化はありますか?
幼い頃から自らを追い込むように走り続け、常に完璧を目指していました。でも、今は欲張りすぎないようになり、音楽に対し、より自由に向き合えるようになったと思います。音楽を通じた成長と変化があったからこそ、今のパダがあると思います。
ただ、歌や舞台へ注ぐ情熱に変わりはありません。これからも、ファンの方々に喜びと希望のエネルギー、そして真心をもってインスピレーションを与えられるアーティストを目指したいと思っています。
ーー韓流はこの先、どうなっていくでしょう?
韓流の基盤を作ったのが、第1次の世代としたら、第2次、第3次といった後輩に当たる歌手たちは実力面で飛び抜けていますし、所属事務所のトレーニングシステムもより充実しています。韓流の未来は明るい、といえるのではないでしょうか。韓国の文化はこれまでも世界を熱狂させてきましたし、その勢いはますます加速していくと思いますよ。
プロフィル 1997年に韓国でデビュー。グループ解散後の2011年、大阪松竹座で開催された韓国ミュージカル「美女はつらいの」で主演を務めた。