最近、この2人をテレビで見ないことはない。テレビ15本、ラジオ3本のレギュラー番組を抱え、「好きな芸人ランキング」ではトップに輝く。
いまでこそMCをこなし、「冠番組」をもつ彼らだが、2007年の「M―1グランプリ」で優勝するまでは、そんな自分たちを想像すらできない日々を送っていた。「ぶあつい壁が立ちはだかっていた」。約10年間にわたった下積み生活を、伊達みきお(46)は振り返る。
仙台商業高校のラグビー部で出会った2人。高校を卒業して介護関係の会社に5年ほど勤めた伊達を、富澤たけし(46)が誘い、1998年にコンビを組んだ。反対する家族に「3年やらせてくれ」と告げて上京した。
6畳一間のアパートで寝食を共にしながら、昼はアルバイト、夜はネタ合わせの日々。「布団に寝て天井を見ながら練習するんですけど、漫才の立ち位置そのままなんです」と笑う。月1回ほどあったライブでは大きな笑いをとっているのに、テレビ局からいっこうに声はかからない。自らチケットを買い取り客を集めなければならず、「バイトを休むので、完全な赤字でした」。
そんな生活を送っていた05年。浅草であったライブに日本テレビ「エンタの神様」の若手発掘用のカメラが入っていた。ついに出演を果たし、2カ月に1回程度出られるようになった。チャンスをつかんだそのときのネタが、ピザ屋の配達人と客がやりとりを繰り広げる「ピザのデリバリー」だった。
M―1には第2回大会の02年から挑戦していた。最初は1回戦で落選、03、04年も2回戦止まり。05年から3年連続で準決勝に進むもそこまでだった。M―1は吉本興業が主催し、決勝に残るのは吉本など大手事務所の芸人が多く、サンドのように小さな事務所からは難しいといわれていた。敗者復活戦ですら、事前に勝者が決まっているといううわさが駆けめぐるほどだった。
そして07年。敗者復活を果たし、2本目の「最終決戦」に残ったとき、2人は迷わず「一番自信がある」ピザ屋のネタを選んだ。初めて敗者復活からのチャンピオンとなった。優勝が決まった直後からマネジャーの電話は鳴りやまず、あっという間にテレビ30本の出演が決まった。
■「東北魂」世界に発信
一気にスターダムに駆け上がった彼らの中で決めていることがあった。ネタにこだわること、そして東北を大事にすること。その思いは「東北で仕事をするために、東京で売れる」(伊達)というほどだ。
11年3月11日。08年から続く東北放送「サンドのぼんやり~ぬTV」のロケで宮城県気仙沼市を訪れていた。立っていられず地面に手をついてしまうほどの大きな地震。番組スタッフから「山に逃げよう」と言われ車でのぼり、街を津波がのみ込んでいくのを目の当たりにした。「さっきまでいた駐車場のビル屋上に逃げていたら助からなかったかもしれない」
携帯電話はつながらず通話もメールもできない。しかし富澤がネットにつながることに気づき、「撮影クルーは全員無事です」などと自らのブログを更新していった。さらにブログのコメント欄を安否確認の情報を書き込めるように開放した。
内陸の気仙沼駅前にあるホテルのロビーで一夜を過ごした。停電で真っ暗な中、ろうそくを立て、缶詰を食べた。ラジオを聞きながら、実家や友人、ロケで話した人たちは「大丈夫だろうか」と気が気でなかった。たびたび余震も起きる。不安で眠れなかった。
上京して長い下積み生活に耐えられたのは、応援してくれる故郷の家族や仲間たちがいたからだ。その故郷が大惨事に見舞われた。翌日、仙台市に向かう車中で、伊達は自らを奮い立たせるように、ガラケーでブログにこう打ち込んだ。
「戦後、俺たちのじいちゃんやばぁちゃんは日本を復活させた。世界には奇跡と言われた日本の復興。必ず復興します! 日本をナメるな! 東北をナメるな!」
その言葉が3月13日の英紙インディペンデントで紹介され、1面に「がんばれ、日本。がんばれ、東北」と載った。2人は被災地の状況を日本全国に伝えるとともに、世界に発信する役割を担ったのだ。
それから積極的に動く。「生かされた人間として何かできることはないか」という強い思いからだった。震災5日後には、寄付を集めるための口座「東北魂義援金」を開設。5月には都内でチャリティーライブを開き、収益金を含め約3億円の義援金を被災自治体に届けた。避難所や仮設住宅を回って、遺族や家族が行方不明の人たちから話を聴いた。つらい話ばかりで、被災地では「お笑いの出番はまだまだ先」と感じた。
M―1優勝から3年余で脂ののった時期。「震災の色がつくと芸人としてダメかもしれない」という不安もあったが、覚悟して踏み切った。ネットでは「売名行為」などと非難されることもあった。でも、「何もやらない人が言っているだけ」と気にしない。「そもそも俺らガラケーだから、あんまりネットを見ないので」
いまも月1、2回は沿岸地域を訪ねる。2人にとって震災からの10年とは?「被災地の人にとっては10年も11年も変わらない。これまで以上に深く関わっていきたいと思っています」
■ライブにこだわり 人とつながる
彼らが大切にするもう一つの柱がネタだ。毎年、単独ライブで全国を回る。新作の漫才やコントはライブのためにつくる。「お客さんとじかに接するから生の反応が分かる」(富澤)と、舞台にこだわり続けている。サンドのネタは言葉の微妙なズレで笑わせるものが多いが、海外公演では外国語でショートコントを披露し、現地の人からも笑いをとる。
ライブにも東北の要素は欠かせない。全国ツアーには必ず東北の会場を入れる。2回目の海外公演をしたスペインは、仙台藩主・伊達政宗が慶長三陸地震からの復興のため使節団を派遣したとされる地だ。新型コロナウイルスの影響で延期になった全国ツアーを今春おこない、その後に被災地で開くことも計画する。
ネタは基本的に富澤がガラケーで台本をつくり、伊達にメールで送る。伊達は人に頼んでそれを印刷してもらい、ネタ合わせをする。根っからのアナログ人間だ。SNSには縁がなく、インスタグラムやツイッターはおろか、フェイスブックやラインにも手を出さない。ガラケーでブログを更新するだけだ。それでもライブチケットはあっという間に売り切れる。
なぜこれほど人気を集めることができるのか。デビュー当初から芸人仲間だったマネジャーの林信亨(48)は「ふだんから本当におもしろいし、人間性でしょう」とみる。
林が芸人をあきらめたのは、M―1の2回戦で同じ会場だったサンドの漫才が「メチャクチャ受けていたのに、決勝に行けない厳しい世界」と痛感したからだ。それだけ実力があるのに売れなかったアパート同居時代も、「仲間が売れると悔しがったりねたんだりするどころか、自分のことのように心から喜んでいた」という。
東北に行けば、ときに涙を流しながら被災者の話に耳を傾ける。NHK「サンドのお風呂いただきます」などでも人とのやりとりが温かい。ネタをみがいて、人とつながる。そんな愚直な積み重ねが、いまの彼らをつくっている。
■Profile
- 1974年 伊達みきお(仙台市生まれ)、富澤たけし(東京都板橋区生まれ、仙台市育ち)。今は身長約170センチ、体重90キロ前後と体形もほぼ同じ
- 1990年 仙台商業高校に入学。ラグビー部で出会う
- 1998年 コンビを結成し、お笑い芸人をめざして上京。それから約10年間、都内のアパートで2人暮らし
- 2007年 漫才日本一を決める「M―1グランプリ」で約4200組の頂点に。敗者復活戦を勝ち上がっての優勝は初めて
- 2009年 「キングオブコント」で準優勝。2人とも結婚
- 2011年 東日本大震災。宮城県気仙沼市で地元テレビ局の番組ロケ中に被災
- 2017年 コンビ結成20年目を記念し、ロンドンで初の海外公演
- 2019年 2回目の海外公演をスペインで開く
- 「東京2020聖火リレー公式アンバサダー」に就任
Memo
少し先輩がターゲット………「基本、男子校のネタなんですよ」と伊達。仙台商業高校で先輩を笑わせていた2人のネタは、いまもその延長線上にある。2006年から単独ライブを続けているが、当初の客層は7割が男性、10代が1人ということも。子どものころの漫画やテレビの話もあって、50歳前後の世代にはドンピシャだが、若い人がポカンとするネタも少なくない。だが、最近は若い女性客が急増しているといい、「ネタは変えていないのに」と本人たちも首をひねる。
伯爵のお墨付き………初めての海外公演をなぜロンドンで開いたのか。「アーティストのワールドツアーといえばロンドンでしょ」(伊達)とは別の理由が、トリオだった時期につけたコンビ名を「サンドウィッチ伯爵に使っていいか聞く」(富澤)ことだった。サンドイッチの考案者を先祖にもつ現伯爵に会いに行くと、「勝手にどうぞ」と公認されたそうだ。