■再生回数4000万超のヒット
中国で今、撮る作品すべてに国内外から注目が集まる異色のドキュメンタリー監督だ。
2020年、新型コロナの集団感染が世界で最初に確認され、2カ月半都市封鎖された湖北省・武漢。封鎖解除後、この街に入り10人の市民の暮らしに密着し、それぞれの思いに迫った約1時間のドキュメンタリー番組「好久不見、武漢(お久しぶりです、武漢)」は代表作だ。泣き、笑い、食べ、立ち止まり、振り返り、前を向く。画面から登場人物たちの生々しい感情があふれ出てくる。6月末から中国版ツイッター「微博」やYouTubeなどで作品が公開されると、年末までに再生回数は4000万回を超え、瞬く間に「時の人」となった。
日本でディレクター経験を重ね、NHKや民放のドキュメンタリー番組の制作に数多く関わった。「リアルな中国を撮りたい」と中国に移住して7年。作品の根底に一貫するのはリアルさだ。
もともと、夢は映画監督だった。
高校時代は学校の授業よりも映画に没頭した。映画館ばかりではお金が尽きる。近くの図書館でLDを借りて映画を片っ端から見まくった。多い日には1日3本。高校卒業後、2年間は映画を見ながら、本人いわく「ぶらぶらと過ぎていった」。20歳のとき、一念発起して新聞奨学生に応募。住み込みで新聞配達をしながら、映像専門学校に通う日々が始まった。
毎日配る新聞を読むうち、世の中で起きている「リアルなこと」の面白さに引かれていった。ドキュメンタリーへの興味がわいた。
専門学校卒業後、ドキュメンタリー番組制作会社に入社し、スポーツやニュース番組の現場を重ねた。そんな中で出会ったのが、中国だった。23歳のとき、麻雀の起源を探る番組の取材で、初めて中国を訪れた。ドアのついていないトイレ、おつりを投げてくる無愛想な店員、人なつっこく話しかけてくる地元のおじさんたち……。いろんな顔を持つ中国の第一印象は「自由で面白い」。取材対象として、大きな魅力を感じた。
■日本紹介企画に「そんな需要はない」
26歳でディレクターになると、中国関連の企画を積極的に手がけた。そんな中、仕事を通じて出会った南京出身の趙萍(42)と06年に結婚、2年後には長男も生まれた。仕事での転機は10。全長約6300キロの長江流域を巡るドキュメンタリーを撮っているとき、中国人からよくこう聞かれた。「高倉健や山口百恵は元気?」。数十年前から変わらない日本のイメージの根強さに、日本と中国の間にある見えない距離を感じた。
今の日本を中国の人に知ってもらいたい。そして、今の中国を日本の人にも知ってもらいたい。両方の国の人たちに見てもらえる、そんな番組を作りたい――。思いが募っていった。
34歳の時、家族で南京に移住。番組制作会社「和之夢」を設立した。とはいえ、社員は自分と趙の2人だけ。会社も親戚の家の一室を間借りしてのスタートだった。
番組作りに自信はあった。でも、仕事がない。当時、尖閣諸島の国有化を巡って、日中関係は冷え込んでいた。地元テレビ局に「日本の今を紹介する番組」を企画して売り込んだが「今、そんな需要はない」と一蹴された。初仕事は、中国人の知人を介して紹介された中国の地方都市のPR番組制作。張り切って3カ月がかりで30分の作品を完成させたが、「面白くない」との理由で制作費約200万円は支払ってくれなかった。
■「何のために中国に?」
ショックだった。貯金を切り崩しながら、日本のテレビ局向けの番組を中国で取材、制作する日々が2年ほど続いた。評判はよく仕事は絶えなかったが、ある日、妻にずばり言われた。
「何のために中国に来たの?」
確かにそうだ。日本からの依頼は全て断り、退路を断った。
しかし、相変わらず地元テレビ局への企画は通らない。そこで目をつけたのが、動画配信サイトを使っての配信だった。15年当時、中国では個人が動画を撮影し、配信するアプリが続々と生まれていた勃興期。テレビよりもスマホの画面からアイドルや流行が生まれ始めていた。
当時は素人の投稿がほとんどだった動画サイトに、自分の作品を投稿することに、プロとしてのちゅうちょもあった。長すぎる動画は飽きられると番組時間は10分以内と決めたものの、今までそんなに短い作品は作ったことがない。暗闇に向かって番組を放送するようで、見てくれる人がいるのか不安で眠れなかった。
15年11月、1回目の配信スタート。番組名は「我住在這里的理由(私がここに住む理由)」。日本に住む中国人、中国に住む日本人の視点から、それぞれの国の社会を伝えようというコンセプトで、初回は浅草の中国人漫画家を主人公にした。両国の人に見てもらうため、字幕は日本語と中国語の両方をつけた。
2日がかりで配信回数が1000回を超えたときのうれしさは、忘れられない。2回、3回と配信を続けていると、動画配信サイトの運営会社から連絡が入った。
■動画口コミで一躍人気に
「これはプロが撮ってますよね」。質が高い動画は自社サイトの売りにしたいから、トップページで扱いたいとの申し入れだった。ようやく中国の視聴者の手応えをつかんだ瞬間だった。
口コミで人気に火がつき、配信作品に広告もつくように。作品のバリエーションも広げた。竹内自らが中国各地の食や風習を全力で体験する番組では、地元の住民たちと中国語で率直にやりとりする姿に、多くのファンが生まれた。街を歩けば「亮叔(亮おじさん)!」と、愛称で呼ばれることも多くなった。
「我住在~」は看板作品となり、ディーン・フジオカも登場するなど、豊富な顔触れも人気な唯一無二の番組に成長した。社員は約40人に増え、市の中心部に事務所も移した。
そんな中で迎えたのが、20年のコロナ禍だった。
中国では感染拡大で1月下旬から移動規制が続き、南京から出られず撮影は次々とキャンセルに。「今伝えるべき事実は何か」と考え、カメラを手に南京の街に出て、公共交通機関や学校、マンションなど防疫対策の最前線を取材し、ドキュメンタリーを配信した。欧州や日本、米国など、世界で感染が広がる中、動画はファンたちが各国の言葉の字幕をつけて拡散、国境を超えて共有された。リアルな現場が持つ力を改めて感じた。
6月、武漢で密着取材に応じてくれた人たちはみな、竹内のこれまでの作品を知っていた。だから、素顔を見せてくれたと思っている。「中国での5年間があったから、撮れた作品」と言う。
10分の動画からスタートした中国での番組制作。1時間の武漢ドキュメンタリーが受け入れられ、次なる目標は?「長江をテーマにした大作を撮って、映画館で上映したい」。今年も、撮りたいテーマがあふれている。(文中敬称略)
■ファンを前に……サービス精神は旺盛な方。そんな性格が発揮されるのが毎年開くファンミーティングの場。昨年は南京と武漢で開催し、それぞれ約200人が集まった。竹内は司会にダンスに写真撮影にと大活躍。南京会場に北京から駆けつけた張雨さん(28)は「シリアスからユーモアあふれる作品まで、いつも全力で大ファン。エネルギーが伝わってきた」と感激していた。
■二人三脚……妻の趙萍は日本に留学中だった2005年、番組で中国人通訳を探していた竹内と知り合った。最初は電話での打ち合わせ。趙が就職活動中と知った竹内は「知り合いを紹介しようか」。「面倒見のいいおじさんだな」と思って会ったら同い年だった。以来16年、趙は会社代表を務め、竹内のスケジュール調整も担当。公私ともに二人三脚で歩み続けている。
写真・姚強 Yao Qiang
写真家。1967年、南京生まれ。南京師範大学美術系写真専攻卒。人物撮影を得意とし、精力的に活動を続けている。