タピオカミルクティーを飲んだことありますか? タピオカは、キャッサバの粉を丸めて、ゆでたもの。それと甘いシロップなどが入ったお茶のことです。
このティーの発祥は台湾。1983年に創業して台湾に50店以上あるカフェ「春水堂」がつくりました。読み方は……、日本語を忘れてください、チュンスイタン! 茶葉の質にこだわった絶品のお茶と、カジュアルな台湾料理と。伝統とモダンのハーモニーが台湾の人々の心をとりこにし、国民的カフェになったのです。
そして、この春水堂。お茶と料理、サービスの質を保つため、あるポリシーをかたくなに守ってきました。
ぜーーったい海外にでない。
ところが……。 東京、大阪、福岡など。いま日本に18店あります。春水堂を日本で展開するのは「オアシスティーラウンジ」。社長は木川瑞季(41)、タピオカブームの仕掛け人とも言われます。
もともとは経営コンサルタント。いまの会社への転職に、まわりの人は言いました。やめとけ。実際、収入激減、失敗の連続でした。けれど、あきらめませんでした。
成田空港のちかくの町で、おてんばさんに育った。飛び立つ飛行機を見て、外国にあこがれた。東京の津田塾大に進む。世界のNGOを調べるサークルに入って興味をもったバングラデシュに行き、すさまじい貧富の差をまのあたりにした。米国留学で、こんどは差別を肌で感じた。
〈私は国連に入って、「人は平等」を実践する〉
まずは学歴、早大の大学院で修士をとった。次は就業経験。2003年、世界的なコンサル会社、マッキンゼーに入った。
超文系の木川にとって、財務諸表の分析は苦行。深夜まで数字と格闘するかたわら、「海外赴任したい」と言いまくった。
翌年、ベトナムに長期出張していた金田修(46)のもとに、木川がやって来た。入社して数カ月の新人さんが、発展途上の国に乗り込んでくるとは頼もしい。そう金田は思った。
ベトナムには水上生活者がいる。移動や漁の手段である船が転覆しては、死者が出た。金田と木川は、企業と政府をつなげて命を救おうと奔走した。でも、なかなかうまくいかない。日本では命より大切なものはないと教えられてきた。けれど国の発展と命を両立しなくてはならない、が途上国の厳しい現実。
「木川は価値観の相克を乗り越えようと歯をくいしばっていた。その姿に感銘を受けた」と金田。
3カ月で木川は帰国、ほどなく台湾勤務に。街の持ち帰り店で売られていたプラスチック容器入りのタピオカミルクティーを飲んでいた。仕事の合間にほっと一息つくお手軽なスイーツとして。
ある日、台湾人の友人に春水堂に連れて行かれた。メニューには台湾料理がずら~り。タピオカミルクティーがグラスで出てきたことにびっくり。すっきりした味わいに、さらにびっくり。
〈これはスイーツじゃない、お茶だぞ〉
木川は春水堂に通いつめ、05年に帰国した。
たまっていた有給休暇をぜーんぶ使い、国連のインターンをした。夢はかなえた、もう国連は十分だ、と思った。
〈いったい私は、何をしたいんだ?〉
東京は表参道で、中国茶の店をひらいて20年という藤井真紀子(62)のところに、木川が習いにきた。「できるオーラがすごくて、うちの店長にと思ったほど」と藤井。
■日本進出知り即決
木川は、春水堂のお茶を飲みたくなると、台湾に行った。頭の中はもう春水堂でいっぱいになっていた。
13年、あの台湾の友だちが教えてくれた。春水堂が日本に進出するよ、と。 〈海外にでないはずだよね、うそでしょ?〉
ネットで調べたら、ホントだった。意外にも水道会社の社長が引っぱってきた、とあった。木川はすぐに会いにいった。
水道管をオゾンできれいにするベンチャーグループの社長、関谷有三(43)は台湾に3年通ってオーナーを口説き落とした、と語った。2週間後、入社したいと言ってきた木川に、関谷は給料の金額を示した。コンサル時代の3分の1。「木川の目が、まじで点になりましたね」
関谷と木川の挑戦がはじまった。
関谷は言う、店をこうしようと。
木川は言う、その根拠を示してと。
根拠なんかない、と関谷。
だったら認めない、と木川。
バカじゃないか、バカじゃないです。
そんな口論、もとい、話し合いの日々。店は赤字。経営コンサルだった自信はあっけなく崩れた。黒字が出るまで3年かかった。
「転職しようと思えば引く手あまただっただろうに。木川のあきらめない強さは、すごい」と関谷。
「愛する春水堂を日本で広げる仕事を、ほかの人にさせたくなかった。私にしかできないという思い込みというか、思い上がりというか……」とは木川の弁である。
18年、木川は社長になった。ベースとなるお茶は鉄観音茶、ジャスミン茶などいろいろ。めざすは、お茶をカフェで飲む文化を日本に広げることだ。
■ブーム過熱、予期せぬ事態に
春水堂の成功を受け、東京・原宿などにタピオカ専門店が乱立。ブームの火付け役だとメディアは木川を持ち上げた。
〈ブームが終わったとき、何をしてきたかが問われるはず〉
木川はファンと交流した。原宿でのゴミ拾いもした。お客が飲んだ容器をポイ捨てする問題がおきたからである。
20年、新型コロナウイルスの感染がひろがり、タピオカ店の閉鎖が続くと、メディアは手のひらを返した。「タピオカバブル、崩壊」。苦しんでいるのは、すべての飲食店だ。ひどい仕打ちである。怒りをのみ込んだ。
「私たちは次のステップに入りました。より一層老若男女が楽しめる店にしたい」
お茶ベースの酒など、新メニューを熱烈開発中だ。
ふつうは、これで終わるのですが、つづきます。
コロナは会社に深刻な影を落とした。何があっても雇用と賃金を守ると、木川はスタッフに宣言した。でもね……。
〈コロナめ〉
苦しさと怒りと悔しさと。木川は自宅を掃除した。何度も、何度も、何度も、心の平穏を取り戻すために。(文中敬称略)
Profile
- 1978 千葉県多古町に生まれる。中学、高校と吹奏楽部でトロンボーンをふく
- 2001 津田塾大学学芸学部国際関係学科を卒業し、早稲田大学大学院に進む
- 2003 国際関係学修士を取得。マッキンゼー・アンド・カンパニー入社、日本勤務
- 2004 3カ月間のベトナム勤務をへて、台湾へ。春水堂にいって、お茶のとりこになる
- 2009 別のコンサル会社に転職。中国茶の教室に通いはじめる
- 2013 「オアシスティーラウンジ」に転職、春水堂の日本立ち上げメンバーになる。広報、物流、採用、スタッフトレーニングなどすべてを担う
- 2018 同社の代表取締役社長に就任
■恋する惑星…香港の映画監督、王家衛(ウォン・カーウァイ)の作品が好き。とくに好きなのが中国返還前の香港を舞台に風変わりで自由な男女関係を描いている「恋する惑星」だ。主演した王菲(フェイ・ウォン)が歌う「夢中人」は、そらで歌えるほど練習した。1年ほど前に香港に行ったときはデモをしていた。「全く雰囲気が違っていて、驚きました」
■ヒーロー…ジャンルを問わず、たくさん本を読む。米国のスラム街の子どもたちに学校を建てた黒人男性の実話「あなたには夢がある」が印象に残っている。著者はその黒人男性ビル・ストリックランド。どんな劣悪な環境で育った子どもでも、美しい空間で教育すれば変わるというメッセージに魂が揺さぶられた。「ビルさんは私の心のヒーローです」
文・中島隆
1963年生まれの編集委員。酒の日々だったが、こんかい初めてタピオカミルクティーを飲んだなり。うまし!
写真・内田光
1986年生まれ。映像報道部員。「食事は早食い、お茶よりアルコール」の生活を見直したい。