「やっぱりこれだったか」
2003年。東京医科歯科大の石野史敏教授(64)は、実験結果が明らかになって喜びに沸く研究室からすぐ共同研究者でパートナーの石野(金児)知子・東海大教授に連絡を入れた。
人の設計図であるゲノム(全遺伝情報)の中で、役に立たない「ガラクタ」と見られていたウイルスに似たDNA配列に、胎盤をつくるのに必須の機能があることを突き止めたからだ。
その結果を確信し、10年以上前から研究を続けてきた石野知子教授は答えた。「やっぱりね」
石野史敏教授らがPEG10という遺伝子を見つけたのは2000年ごろ。哺乳類だけが持つ遺伝子の中に、ウイルスにかかわる配列を探していてようやく見つけ出した。
この年、胎盤で機能するウイルス由来の遺伝子がヒトと霊長類に共通して存在することが別の研究グループから報告されたが、哺乳類全体に残された遺伝子を発見したのは初めてだった。
当時、物珍しさはあったものの、そうした遺伝子に重要な機能があると考える人はほとんどいなかった。しかし、石野史敏教授らは「きっと大事な機能があるはず」と予想した。
ただ問題は、それを確認するには、時間もお金もかかることだった。実験には4、5年を要し、費用は年間数千万円。結局何も出てこなかったら……。それでも石野教授らは一か八かの賭けに出た。3年後、ついに遺伝子の機能を確認できた。
2003年、研究成果を初めて発表したフランス・モンペリエでの国際学会の様子を石野史敏教授は今でもはっきり覚えている。みな口をつぐみ、シーンと静まりかえった。「それぐらい意外すぎて、誰も予想していなかった」(石野史敏教授)
研究は続く。哺乳類はいつ胎盤を獲得したのか。そのなぞに迫るため、石野史敏教授らは進化の過程をさかのぼってゲノムを調べていった。
すると、胎盤形成に関わる遺伝子PEG10が、カモノハシなど卵から生まれる単孔類にはなく、そこから分岐し、母体から生まれるカンガルーなど有袋類やヒトなど真獣類に共通してあることがわかった。
その遺伝子の配列は、まだ恐竜が生きていた1億6000万年ほど前にウイルスなどによって外から入って取り込まれた可能性を示していた。哺乳類などの祖先がまだネズミのような姿をしていたころのことだ。
「胎盤を作る能力を持った生き物が生まれた時期と、胎盤を作る遺伝子を獲得した時期が全く同じだとはっきりしたわけです。進化の過程で外から入ってきた遺伝子が、生物をがらっと変えてしまうようなポテンシャルを持っていた」と石野史敏教授はいう。
こうしたウイルス由来の遺伝子が胎盤だけでなく、脳の機能や筋肉の発生にも関係していることが、次々と明らかになってきている。
人の遺伝情報をすべて解読しようとする国際プロジェクト「ヒューマン・ゲノム・プロジェクト」が始まったのは1990年。03年に解読完了が宣言された。そこで明らかになったのは、人の体をつくるたんぱく質を生み出すのに関わっている遺伝情報の部分はわずか1.5%で、残りの大半はよく分からない配列や無意味な配列の繰り返しだったということだ。
さらに、全体の8%ほどは、ウイルスなどにより外から入ってきたものだった。石野教授は「我々のゲノムは、ほとんど何もわかっていないに等しいのではないか」と話す。
胎盤の進化をもたらしたと考えられるウイルス由来の遺伝子は一つだけではない。最も原型とみられるPEG10がゲノムの中に入った後も、数千万年前までの間に次々と様々な遺伝子がウイルスなどによってもたらされたとみられている。ただ、まだなぞは多い。
ウイルス感染は生物に多くの死をもたらす。一方で生物はそれを活用して生き残っていく術も得ていった。石野史敏教授は言う。
「生物にとって外界の環境は常に変わっている。その中でたくましく生きていくために、我々も常に変わってきた。その原動力の少なくとも一部は、外から入ってきた遺伝子だった」