韓国文学の大御所、黄晳暎(ファン・ソギョン)の新作『鉄道員3代』は、600ページを超える大作だ。
ジノは地上45メートル、コンクリートの煙突上部のぐるりと手すりのついた幅1メートルほどの空間で籠城中だ。25年間勤めた工場が閉鎖され、解雇労働者を代表してデモを行っているのだ。孤独な夜、ジノは空のペットボトルに、今は亡き人々の名前を書いて並べた。すると彼らが現れ、過去の世界へと誘われる。
朝鮮が植民地化される前、鉄道敷設のために、沿線となる田畑や森などの徴発が始まった。実直で手先の器用なジノの曽祖父は、機械工として鉄道局に雇われた。祖父は専門学校を出て鉄道局に勤め、旧満州の新京まで走る旅客列車の機関士となった。日本の敗戦後は左翼の活動家に転身し北朝鮮に渡る。
曽祖父の妹の夫は、営団住宅の建設で腕前を認められ、家族を伴って新京に赴任した。祖父の弟は工場の先輩から社会主義思想を学び、読書会を組織する。「京城トロイカ」と呼ばれる革命家たちと行動を共にして、逮捕され拷問で死んだ。
父親や叔父が「アカ」のため進学もできないジノの父チサンは、父親のいる北朝鮮に渡り、貨物列車を運転するが、朝鮮戦争の爆撃で片足を失い、米軍の捕虜となってソウルに帰還した。
幼い子を残して死んだ曽祖母は、霊感の強い祖母クムの夢枕に立ち、家族の慶弔事を告げる。女工の経験があるクムはときおり労働歌「インターナショナル」を口ずさみ、夫と再会できぬまま90歳で死んだ。
いつの時代にも、わずかな金と小さな権力にしがみつく者がいる。日本の警察の手先となり、社会主義者を捕えて拷問したのも朝鮮人だった。日帝時代の凄惨な拷問は、軍事独裁政権下まで引き継がれた。
低き処の人々をリアルに描き出す作家は、あとがきで語る。「韓国文学史の中で抜け落ちている産業労働者の近現代100年余りにわたる暮らしの道程から、現在の韓国労働者のルーツを明らかにしたかった」
「労働者が高い所で自分の立場を主張して籠城するだけでも、ものすごい社会の変化だって、ばあちゃんが言ってた。世の中はほんの少しずつ、よくなっていくんだって」。ジノの独白が今の社会の現実だ。
■どこかの国の、どこかの時代の物語
『月を越えて走る馬』は、味わいのある文体でファンの多い、金薫(キム・フン)の新作。人間の生の営みを巧みに描写する作家が、今度は馬の思いまですくい取った。
自然の脅威の中で、人が動物たちと共に生き、霊的な力が存在していたころの話だ。北方の遊牧民の国、草(チョ)の人々は、初めて馬に乗ることを覚えた。人間に飼われた新月馬という種は、戦に駆り出される。死は常に隣にあり、誰も悲しまない。
草との間を隔てる大河の南にある旦(タン)では、王が城を築き、死者を敬う風習を持っている。旦の草原には、飛血馬と呼ばれる血統が生息していた。
草は、住む場所を固定する旦のやり方を忌み嫌い、旦の城に攻め入り、破壊する。騎馬戦が始まれば、それに見合った武器も発達する。人間の欲望と暴力の激しい衝突。その戦場で、新月馬と飛血馬は初めて出会う。
草の王子を乗せて出陣した雌の新月馬の吐霞(トハ)は、人間の抱く敵意を不思議に思う。人同士は争うが、人を乗せない時、馬同士は争わず、交わる。草は野生の犬種である黒風を手なずけ、戦に駆り出す。犬は敵と味方の匂いを区別し、敵を襲う。
夜白(ヤベク)は、旦の将軍を乗せた雄馬だ。「洗濯ひもに掛かった小さな子供の服からは、吐いた乳のすえた匂いが漂ってくるようだった。洗濯物がはためいて影が揺れれば、子供たちが戯れるように見えた。生まれてから死ぬまで、服を着て生きる人間の運命に、夜白はほほ笑んだ。体の上に布を掛けて生きるもどかしさを、夜白は哀れに、そして可愛らしく思った」
草と旦は長きにわたって戦を繰り返し、そして互いに消滅した。草と旦が倒れた後、草原には雨風が吹き荒れ、また穏やかな時が流れていった。
旦と草の歴史を記した『旦史』と『始原記』に、いにしえの戦いは短く記されるのみ。馬の思いは記録されていない。旦の古文字は、今も解読されないままだ。
「史書は、己の考えにとらわれた後代の史家たちが、省いたり補ったりしながら記述したものであるから、人間の生の営みの本質をつかみ切れない文献の的外れは、各所にある」
どこの国のいつの時代の話か、想像したがる読者の思いを、作家は遮断する。深く、冷徹に文章と向き合う作家の筆力に圧倒される。
■他界して10年、なお人の背中を押せる人
チョン・セランの新作『シソンから、』は、さわやかな後味を残す作品だ。
画家として、作家として、苦しい時代をおおらかに生きた女性シソン。自分の死後に祭祀(さいし)、つまり法事などやるなと言い残したが、死後10年目に、娘や孫たちが集まって風変わりな祭祀を執り行う。それも、かつてシソンが移民労働者として暮らしていたハワイで。
付かず離れず家族の絆を守ってきた女たちは、それぞれが心の傷を抱えている。それでも前を向いて生きていけるのは、シソンのおかげなのだと再確認する。
「私たちは、醜悪な時代に生きながら、毎日美しいものを見つけていた、その人に似ているから。失敗してどん底に落ちても、決して諦めなかった人が背中を押してくれたから。世を去って10年過ぎても、世の中を驚かせる人のかけらが、私たちの中にあるのだから」
韓国のベストセラー(小説)
7月第1週 インターネット教保文庫より
『 』内の書名は邦題(出版社)
1 기억 1 記憶1
베르나르 베르베르 ベルナール・ウェルベル
韓国で絶大な人気を誇るフランス作家の新作。潜在する人格との驚きの出会い。
2 기억 2 記憶2
베르나르 베르베르 ベルナール・ウェルベル
前世の記憶をたどる、歴史教師ルネの奇想天外な物語。
3 달 너머로 달리는 말 月を越えて走る馬
김훈 キム・フン(金薫)
ベテラン作家の待望の新作。太古の昔から、馬と人間が織りなす命の物語。
4 시선으로부터, シソンから、
정세랑 チョン・セラン
編集者出身の35歳の女性作家。次代を生きるさわやかな女たちの物語。
5 아몬드 アーモンド
『アーモンド』(祥伝社)
손원평 ソン・ウォンピョン
喜怒哀楽を感じない主人公の喪失と成長の物語が、多くの読者を泣かせた。
6 데미안 ダミアン
헤르만 헤세 ヘルマン・ヘッセ
今年も夏休みが近づき、読書感想文の定番本がランクインした。
7 2020 제11회 젊은작가상 수상작품집 2020第11回若い作家賞受賞作品集
강화길, 최은영, 외 5명 カン・ファギル、チェ・ウニョン 他5名
毎年、文壇デビュー10年以下の、若手作家7名が選ばれる。中短編集。
8 철도원 삼대 鉄道員3代
황석영 ファン・ソギョン(黄晳暎)
曽祖父、祖父、父の3代が鉄道員だった家族が、歴史の波に翻弄され生きる。
9 우리가 빛의 속도로 갈 수 없다면 私たちが光の速度で進めないなら
김초엽 キム・チョヨプ
科学を学んだ若き小説家。これからの韓国SF小説は、彼女が牽引しそうだ。
10 페스트 ペスト
알베르 카뮈 アルベール・カミュ
世界中で収束する気配のないコロナ禍。往年の名作が読み継がれている。