1万キロ離れたケニアからバラを輸入する。そんなビジネスを始めたきっかけは29歳で会社員を辞め、現地でバラと出合ったことだ。たった1人で始めた花屋はいま、広尾と六本木に店を構え、バイトを含め20人ほどが働く。慈善活動ではなくビジネスとして軌道にのせ続けるのは容易でないが、萩生田の周りには不思議と人が集まる。起業家出身で、取締役として経営にかかわっている武井浩三(36)もその一人。武井は、こう話す。「本人がアフリカのバラのような強さと純粋さのある人だから」
子どものころは引っ込み思案。東京・町田で、公務員の父とのちに私塾を開いた母のもと、3人姉妹の長女として育った。小学校では初め、「一緒に遊ぼう」が言えなかった。遠足のとき、お弁当の輪に入れず家に帰って泣いたことも。4年生で引っ越し、勇気を出して声をかけたら友達ができた。「環境の変化をチャンスに一歩を踏み出すことで世界が変わった」。踏み出して変えられた原体験が、人生を自ら切り開く原動力になった。高校のころには、オーストラリアへの短期留学で世界の広さを肌で感じた。大学も海外に行きたい。母と毎晩話し、英語を学ぶのではなく、英語で学びたいと気づき、米国の大学受験を決めた。
■会社とも恋人とも離れ、アフリカへ
渡米した3カ月後、9・11(米同時多発テロ)が発生。世界が大きく変動する中、各国の学生と国際関係学を学んだ。授業で参加した模擬国連で、1日1ドル以下で暮らす貧困層が多いアフリカの生活を知った。その現実に衝撃を受けた。たまたま日本に生まれただけで全然違う暮らしを送ってきた。なにかできないか。同時に、疑問も浮かんだ。いまの物資やお金の支援は押しつけになっていないか。土地に特有の文化や価値観もあるのでは。
アフリカのいまを、自分の目で確かめてみたい。ただ、国際機関で働こうにも、スキルもない。まずは経済的に自立したいと、大手製薬会社で働いた。数年後、会社がかかわる、アフリカに感染症薬を無償支援する計画を知り、思いがよみがえった。「やはりアフリカに行きたい」。当時29歳。仕事もあり、将来を語らう恋人もいた。「会社を辞めてまでアフリカに行くなら、その先はアフリカで考えたい。そうでなければ自分の人生に失礼だ」。退社し、恋人とも別れた。単身ケニアにわたった。
参加したNGOは、首都ナイロビから3時間離れた小学校の建設を手がけていた。ところが、現地では児童労働が深刻だ。学校をつくっても通えない子どももいる一方、大人たちは支援に慣れきった様子。現地のニーズと支援のギャップを知り、もんもんとした。大人の雇用をつくり、子どもが学べるようにできないか。
週末、ナイロビの街角で売られていた花に目を奪われた。カーネーションのようにマーブル状の柄のカラフルな花々。
「これ何の花ですか」
売っていた男性は、驚いて言った。
「君の国にバラはないの?」
これがバラなの? 華道の師範免許はもっていた。だから、花を見る目には自信があった。品質は最高級だ。
「ケニアはバラの産地。欧州に輸出しているんだ」
誇らしげだった。調べると、ケニアは世界一のバラの産地。赤道直下で日照時間が長いこと、標高が高く、朝晩と昼の寒暖差が激しいことが、育成の好条件という。それを日本に輸入して、ケニアで仕事をつくれないか。一度日本に戻り、再びケニアに舞い戻った。少量でも輸入させてくれる農園を見つけ、児童労働がなくシングルマザーを多く雇用する農園と、すぐ契約した。
アフリカの花を日本で売りたい。萩生田の唐突な話を聞いた母は心配した。でも、萩生田が語るのはバラの美しさばかり。「思いがピュアなだけに止められない。ならば応援しようと」。母も一緒に車を走らせてくれ、成田空港でバラ2500本を受け取るところから手伝った。そのバラはイベントで販売。次はオンライン販売を始めた。
ケニアのバラの魅力を伝えたい。もっと花を贈り合う文化を日本で広げたい。買いたいと思ってもらえるように働きかけ、しだいに共感する人が増えてきた。フラワーデザイナーで取締役の田中秀行(40)は「愛さんがつくる場は、広がりが生まれる」。15年、東京・広尾に初めて路面店をオープン。クラウドファンディングで資金を募り、店の内装も、駆けつけてくれた客がペンキを塗ってくれた。毎年のケニア視察には、客までが参加しだし、ツアーも組まれるようになった。萩生田は視察時に、農園のスタッフに笑顔があるかも気を配る。
「働く環境がいい状態か、チェックしています。元人事部員なので」。日本への販売を通じ、20~30人の雇用がつくれているという。
■卒業式が消えた学生に贈った一輪
転機は2年半前。結婚し、子どもが生まれた後だ。産後6週間で復帰するも体調は戻らず、子どもとの時間もほしかった。自分がいなくても組織がまわるようにしたかったが、新規出店など攻めの姿勢も変えたくなかった。社長業と家庭のバランスがうまくとれず、余裕を失った萩生田にスタッフらは戸惑った。
昨秋、武井に経営に加わってもらった。「自分が話す前に、周囲の声に耳を傾けたら」。働き始めた武井は萩生田にそう助言した。店やスタッフが増える中、萩生田の力みを感じたからだ。助言が効いたのは数カ月後。コロナでイベントがキャンセルされ、1000本ものバラが余った。どうしたらよいか学生のバイトスタッフに聞くと「卒業式のなくなった友達に贈りたい」。卒業式が消えてしまった学生に、バラ1本を贈る企画を始めた。SNSで話題を呼び、今年の母の日の売り上げは過去最高となった。
思いを行動に移す萩生田らしさはいまも変わらない。コロナの影響で飛行機が飛ばなくなって大気汚染が改善したと知った。CO2を排出する飛行機でバラを輸入していれば無縁ではいられない。環境問題に取り組む「環境部」をスタッフ数人とつくり、バラの購入ごとにアフリカの植林に寄付をすることにした。
これからの夢は。「愛と調和のある社会や世界をつくりたい」。もっと広く、そして先を見据えている。
■Profile
- 1981 東京都生まれ
- 1998 都立狛江高校2年時、オーストラリアに短期留学
- 1999 都立狛江高校3年時、大学から米国に留学したいと考える
- 2001 カリフォルニア州立大学入学。翌年の1年間、スペインに留学。その後、国際関係学専攻。模擬国連を通じ、貧困問題やアフリカに関心を抱く
- 2005 新卒で、エーザイ株式会社で勤務。アフリカに感染症薬を無償提供するプロジェクトを知り、アフリカへの思いが再燃する
- 2011 退社し、アフリカ・ケニアへ。半年間、NGOで、小学校建設を支援するボランティアスタッフとして働く。ナイロビでバラに出合う
- 2012 バラの個人輸入を始め、イベントでの販売やネット販売で「アフリカの花屋」を展開し始める
- 2015 東京・広尾で路面店「AFRIKA ROSE」をオープン
- 2017 結婚
- 2018 第1子を出産
- 2019 六本木ヒルズに2号店「AFRIKA ROSE & FLOWERS」をオープン
■祖父と両親…大手エネルギー会社に勤めていた祖父には「グローバルな人材になれ」、父には「自然との調和」、母には「これからは心の豊かさの時代」と言われて育った。いまの事業はそれらを体現するかたちになっている、と感じている。最近、自身の正義感や少しでも早く進めたいと思うせっかちな部分が、昔見ていた祖父のありように似ているかもしれない、ということにも気がついた。
■ジャズピアノ…小学4年生のころからクラシックを習っているが、10年ほど前、ジャズを聴いたことをきっかけに習い始めた。しばらく中断していたが、最近レッスンを再開し、はまっている。夫は「ゼロから1を生み出せる人。自分の心の赴くまま興味があることをやるなかで、新たな世界が広がり、やっていることの循環も生まれてくるのでは」と見守っている。