■20年ぶりの4WDスポーツカー
千葉・幕張メッセで1月中旬に開かれた日本最大の熱狂的な車ファンの祭典「東京オートサロン」。今年最大の注目が、トヨタが20年ぶりに発売する4WDスポーツカーの「GRヤリス」だった。
GR(GAZOO Racing、ガズー・レーシング)はモータースポーツやスポーツカーに使われるトヨタのブランド。小型車ヤリスの名前は使うが、グラマラスな車体後部はまるで別物だ。世界ラリー選手権(WRC)で勝つことを最大の目的として開発し、一般ドライバーでも楽しめるよう「調整」したのだという。これまでは主に既存の市販車を改造してラリーやレースで戦っていたが、逆の発想となる。
記者会見で流れたビデオメッセージの中で社長の豊田章男(63)は「トヨタが自らの手でつくるスポーツカーがほしい。勝てる車があってはじめて、本当の意味での『クルマ屋』として全世界に認めてもらえる。(GRヤリスは)世界で勝つためにトヨタが一からつくる車だ」と熱い思いを披露した。
生産ラインでも大胆な改革を進める。いまのトヨタのスポーツカー「86(ハチロク)」と「スープラ」は、それぞれスバル、オーストリアの車製造会社マグナ・シュタイヤーが生産し、いわば「生粋のトヨタ車」ではない。久々となる自社製スポーツカーの生産に向け、専用設備の「GRファクトリー」をつくった。ベルトコンベヤーで次々に車を流していく従来の製造ラインと違い、熟練の「匠」が同じ場所で1台の車を丹念に造り込んでいく。これにより、スポーツカーに必要な剛性の高いボディーと精度の高い組み立てを実現するという。
■みんなでいい車を作るカルチャー
村田は会見の様子を、舞台の横から腕組みしながら見ていた。レース部門のTOYOTA GAZOO RacingでWECチーム代表としてル・マンを含む世界耐久選手権(WEC)を戦いながら、昨年からは愛知県豊田市のトヨタ本社を拠点にGRのスポーツカーづくりを担当している。チームの本拠地はドイツなので異例の人事とも言えるが、その狙いをGRカンパニーのプレジデント、友山茂樹(61)は「車開発のプロセスを変えるため、レースでのノウハウを採り入れたい」と説明する。
トヨタの市販車開発は、チーフエンジニアを中心に進められるが、エンジンやシャシーなど出身部署の壁が少なからずあり、車全体に目配りできないこともあるという。「レースの世界では1戦終わったら、すぐ次に向けて開発する。『俺はエンジン屋だ』『俺はシャシー屋だ』と言ってられず、みんなで1台のいい車をつくる。そういう文化をGRの中につくり、他の部門にも展開していきたい」と期待する。
村田がその手腕を発揮したのが、世界3大レースの一つ、フランスのル・マン24時間レースだ。中でも2016年のレース以降は、「カイゼン」や「現地現物」(現場を重視するトヨタ伝統の考え方)、「チームワーク」などに代表される「トヨタウェイ」の集大成となった。
それは「残り3分の悲劇」から始まった。
■どうしても、どうしてもル・マンで勝ちたかった
16年のル・マン24時間レース。最高時速300キロ以上で24時間近く疾走してきたトヨタの「TS050ハイブリッド」が、残り3分で突然、スローダウンした。「ノーパワー!」。ドライバーの中嶋一貴が無線で叫ぶ。あと少しで手が届きそうなところまで来ながら、初の栄冠は手のひらからこぼれ落ちた。結局、中嶋の車はリタイアし、もう1台のマシンは1985年の初参戦以来、5度目の2位。「やはり勝てないのか」。多くのスタッフがひざから崩れ落ちて号泣するなか、村田はリベンジを信じていた。
「ギブアップと言わない限り、俺たちは敗者じゃない」
速い車はできた。必要なのは、どんな難題にも対処できる強いチームだった。耐久レースは4時間以上の長丁場。1台のマシンを3人のドライバーが交代で運転するなど、F1と比べてチームの結束がより重要になる。舵取りを任された村田にとっての正念場。役に立ったのはトヨタ伝統の「カイゼン」だった。
ル・マンでのトラブルは、吸入空気を冷やすインタークーラーのパイプが落ちたことが原因だった。設計が悪かったのか、製造方法に問題があったのか。原因を究明したかったが、出身地が20カ国以上の混成部隊は、責任の押しつけ合いが目についた。レースの世界ではミスを認めると、クビになることも珍しくないからだ。村田は粘り強く話し合った。「そんなレベルの低い話じゃない。徹底的に原因を掘り尽くして、悪いところを協力して直そう。それがトヨタウェイだ」
一方、レース中、パイプの脱落を把握できず、すぐに対応できなかったのも不満だった。改めて想定されるトラブルを精査すると、未対策のものが3000も4000もあった。「ラッキーで優勝できるだけやった」と愕然とした。システムの異常を感知できるセンサーを増やすなどの対策は打った。それでもトラブルが起きればピット作業の勝負になる。部品交換に30分かかれば優勝戦線から脱落するが、3分に短縮できれば生き残れる。テスト中、抜き打ちでトラブルの課題を出してスタッフを鍛えるなど、もくもくと努力を続けた。ドライバーのアンソニー・デビッドソンは「まるでNASA(米航空宇宙局)のようなオペレーションだ」と目を見張った。そんな村田に、中嶋は「チームの顔として、いるだけで重みを与えてくれる存在」と信頼を寄せる。
もともと村田のレースでの出発点はエンジン開発。つまり「エンジン屋」だ。「エンジンがレースを動かしているんだぐらいに思っていた」という。だが、09年からハイブリッドのレーシングカーづくりを任されると、それが思い上がりだったと気づいた。車が速く走るには、エンジンやモーターが生み出す力を、いかにタイヤ4本に効率よく伝達し、ドライバーの意のままに走れるようにするのかがカギになる。車両全体をパッケージとして考えることが大切だと理解した。さらにチームのトップとして、ドライバーやエンジニアらのメンタリティー、チームの状況なども考えながら、メンバーをまとめないとレースに勝てない。そんな村田を友山は「レース屋」と表現し、「市販車をつくってきた人とは違う、独特の発想ができる」と評価する。
迎えた18年は強豪ポルシェが撤退し、トヨタが優勝の大本命。チームの2台が最大のライバルになった。ル・マン前哨戦となるスパ・フランコルシャン(ベルギー)のレース前、村田はチーム内の異変を感じた。勝利へのプレッシャーからかチームがぎくしゃくしていた。しかもドライバーもエンジニアも自分たちの車で勝ちたいと思っており、思わぬ事故やトラブルで足をすくわれかねなかった。英語は得意でない。だけど簡潔に気持ちを伝えたかった。思いついた言葉が「オール・フォー・ワン」。レース前のミーティングで、「相手を蹴落とすと考えている奴らは出てってくれ。目指すのは、あくまでも1-2フィニッシュ。それ以外は認めない」と宣言。チームのスローガンになった。
そしてル・マンがスタートした。ドライバーの中嶋は、これまでは運転の合間に3時間ほど仮眠できていたが、この日は眠れなかった。いままでのレースではなかったほどのプレッシャーを感じていた。「車はほぼ完璧だと思っていたが、自分がミスするのではと心配だった」。村田も「何かやり残していないか」と心配しながら見守った。24時間後、2台は思い描いたとおり並んでゴール。初優勝の夢がかなった。
仲間のきらきらした笑顔を見ながら、村田はほっとしていた。「だってトヨタの30年分の怨念がのっていますからね」。優勝を果たせぬまま亡くなった先輩の遺影をル・マンの自席に飾っていた。頂点にたどり着けたのはなぜか。「あきらめなかっただけ。どうしても、どうしても、どうしても、どんだけつらかったとしても、ル・マンで勝ちたかった。もうそれだけなんですよ」
村田はいま、「すごい悪いときも、いいときもあるけど、一つ一つの出来事に対して、ネガティブに取り組むのと、ポジティブに取り組むので、自分の体に染みこんでくる、知識の蓄積がすごい違う」と振り返る。それだけに、「無駄なことは一つもなかったと今は思える。若いころは、ふてくされて、飲みまくっていたときもあるけど、ああいうときに、ふてくされない、しがみついて、歯を食いしばって頑張ってよかったなって思う」と言う。
後編は、人生の土台をつくったという大学時代や、転機となったトヨタ入社後のレース活動などを通し、トヨタの新しい車づくりを担う村田の哲学を紹介する。
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■Profile
- 1963 大阪市で生まれる
- 1983 大阪大学工学部に入学し、ワンダーフォーゲル部へ。日本各地の山を制覇
- 1987 トヨタ自動車入社。モータースポーツ部でル・マン24時間レース用エンジンを開発
- 1995 米国CARTレース用エンジンの開発を担当。2000年に初勝利
- 2003 市販車用エンジンの開発責任者に
- 2005 トヨタがハイブリッドカーを使ったレース参戦の検討を決定。村田が責任者に命じられる
- 2012 ル・マン24時間レースに再挑戦。14年に初のWEC王者
- 2016 ル・マン24時間レースで首位を快走するが、残り3分でリタイア
- 2018 ル・マン24時間レースで念願のトヨタ初優勝
- 2019 GRカンパニーで、市販スポーツカーの開発を兼務