肌で感じる温暖化の危機、リアルに伝えたい キリバスに惚れ、国籍も変えた
国籍を日本から太平洋の島国キリバスに変えて20年。浅黒い肌にかっぷくのよさ、丸い顔は、生まれながらにしての地元の人と間違われそうだ。そんな風貌に加えてキリバスの正装でテ・ベーという腰巻きに柄物のシャツ、貝の首飾りに頭に花の冠をつけて講演会場に現れると、場はそれだけでなごんだ。(文・森治文、写真・小玉重隆、文中敬称略)
「キリバス人って世界に11万人しかいないレアキャラ。それが目の前にいるって、すごくない?」。昨年10月、東京都内の高校での講演。1時間半の話の前半はもっぱらユーモアをまじえたキリバスの紹介や日本との関係などに時間を費やした。そんな語り口に生徒から笑い声が何度も起きた。
「温暖化の話が少なめですね?って聞かれたこともある。でも、国そのものに関心を持たれなかったら、どんなに長々と説明しても考えてくれないでしょ」。中央アジアのキルギスとよく間違われる。知っていても「温暖化で沈みそうな国ですね」と平然と返された時は二の句が継げなかった。
キリバス愛はどこから来るのか。「大好きとしかいいようがない。理屈じゃなくて」。小学5年の時、テレビで放映されたキリバスのドキュメンタリー番組。空や海の透明感と白砂のまばゆさ、人々が浮かべるほほえみ……。グアムや沖縄など家族旅行で訪ねた南の島はいくつもあるのに、なぜかキリバスの映像が目に焼き付いて離れない。高校1年の夏、留学を決意。敷かれたレールの上を歩く人生より未知の領域をのぞいてみたかった。
東京のキリバス名誉総領事に手紙を書くと、本国の教育省の次官の目に止まり、ホームステイ先として受け入れると返事があった。キリバスの学生ビザ第1号。翌年1月、飛行機を乗り継いで4日かけ、赤道直下のあこがれの国の土を踏んだ。
とはいえ食べ物は米と魚ばかり。遊ぶ場所も限られる。1年目半ばでホームシックにかかった。「周りの反対を押し切り、あれだけ大騒ぎして来たのに」と学校裏手の海岸で自問自答したことも。だが、キリバス人の懐の深さや人間関係の近さを知って自分から飛び込むと、次々と友だちができた。言葉も難なく吸収し、「キリバスのデーブ・スペクターさん状態になった」と笑う。
卒業後も戻る気はさらさらなかった。タコ輸出会社の現地社員に採用され、地元の女性と結婚した。「明るくて謙虚、おせっかいだが適当に放っておいてくれる国民性は、私には水が合った」
国籍取得条件の在留期間7年がたつと、すぐキリバス国籍を申請した。それまでも「日本人だから」と遠慮することはなかったが、キリバス人になれば参政権を得るなど活動の幅も広がる。日本国籍を失うことに「1ミリも後悔はなかった」。
そのころから職場に出入りする人に誘われ、当時は野党議員で、後に大統領となるアノテ・トン(67)の私邸であった集会に幾度となく顔を出した。物おじしない性格のオノが質問をぶつけていると、驚いたことに、連れて行った娘や息子が「グランパ(おじいちゃん)」とトンになついた。これをきっかけに家族同然の関係に。政治面でも演説の草稿づくりなどトンの活動を支え、2003年の大統領選勝利にも関わった。
後に離婚を経験、シングルファーザーとなったオノはトンから同居も勧められたが、公私混同と見られないよう断った。ただ、トンが大統領を退いた今は「ダッド(父)」と呼ぶ間柄だ。
そのトンがライフワークにしているのが、温暖化による自国の深刻な状況を世界に訴えること。世界銀行の報告書では、平均海抜2メートルの首都タラワのある島は、2050年に面積の最大8割が海面上昇などで浸水するおそれがあるという。各国が協力して温室効果ガスを今以上に大幅に削減しなければ「私たちの未来はない」と、先月スペインであった気候変動の国連会議にも民間人の立場で駆けつけた。
オノも00年ごろから温暖化の兆候に気づいていた。11年の東日本大震災を機に母のそばにと、やむなくキリバスを離れて以降も、一時帰国した際に目にしたり友人が伝えてくれたりした情報で年々、ひどくなっていることを実感してきた。大潮のたびに海岸が浸食され、住宅地が広範囲に水につかる。雨期と乾期がはっきりしなくなり、地下水に海水が入り込んだりして飲み水もしょっぱい。昔はなかったことだ。
トンに触発され、日本でも何かをと思案していた矢先、思いがけない電話があった。宮城県の環境NGO「みやぎ・環境とくらし・ネットワーク」(MELON)の井上郡康(47)だ。キリバスにいた06年ごろ、インターネットでMELONの存在を知って何度かメール交換した仲。その後、途切れていたが、人づてにオノが仙台にいると、偶然知ったのだという。会うと、「キリバスの実情を人前で話してみては」と持ちかけてきた。
MELONの活動の一つは温暖化問題啓発の出張講演。井上はオノにそれを期待した。ただ、うまく話せるかは未知数だ。手始めに15年秋、MELONの会員で温暖化問題を熟知する市ら約20人に対し、仙台市の事務所で話す機会を設けた。
ココナツ油のにおいを漂わせたオノは問いかけた。「キリバスの子どもたちは、2050年にはふるさとがないかもしれない。解決できる問題なのに。この子たちの目を見て言えますか? ごめんね、あなたたち難民になっているかもしれないって」
井上は心を揺さぶられた。「温暖化の話って、例えば節電を説いても、それで世の中がどう変わるのか想像しにくい。でもオノが話すと、水没の危機にある島と、そこで暮らす人の様子が真に迫ってきて、このままではいけないという気にさせるんです」。ある環境団体は解散寸前だったが、オノの話をきっかけに存続を決めた。オノも「キリバス国民の思いを日本人に伝えることが与えられた使命」と確信した。いまは講演や翻訳、キリバス支援事業の手伝いなどで生計を立てる。
16年から本格化した講演活動は、北海道から沖縄まで年に100回弱を数える。トンにメールで近況を報告すると、「私は日本に行く必要がないね」とメッセージが返ってきた。
オノの講演は後半、島の深刻な環境に話を移し、最後をこう結ぶ。「愛の反対とは、憎しみや恨みではなく無知と無関心。関心を持たれないことは一番つらい」。小国からの魂の叫び。希望は失ってはいない。話を聞いた人の中から必ず、温暖化を解決に導く人が出てくるとオノは信じている。
聖書……キリバスへ留学する際に、日本から持っていった本の一つが「コンサイス・バイブル」。通っていたキリスト教系の幼稚園を運営する団体が出版した聖書の要約書で、キリバスにカトリック教徒の多いこともあって、オノも現地で洗礼を受けた。人間関係に悩んだ時など、「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れません。あなたが、私といっしょにおられますから」などの一編に救われたという。