気絶しそうな高さだった。69階まである超高層マンション。45階のベランダから地上を見下ろすと、人間が豆粒のように小さく見えた。同じ高さの11棟からなるマンション群は、地下鉄の駅と専用のエレベーターで直結している。このマンションに入るのに使われるのが、電車の利用に使われるICカード「オクトパスカード(八達通)」。いわば香港版のSuicaだ。入り口の機械にかざして、セキュリティーロックを解除する仕組みになっている。
これらのマンション開発の中心を担ったのは、地下鉄を運営する香港鉄路有限公司(MTR)。香港中心部と国際空港や香港ディズニーランドをつなぐ路線も運営する独占鉄道事業者で、オクトパスカードを発行している。
駅直結のエレベーターもオクトパスカードがないと乗れない。カードに登録された個人情報が住民を証明するIDの役割を果たしている。住民の共用スペースには、会議室やコンピュータールーム、カラオケやボウリング、ジムなどがある。ここでの予約や支払いにもオクトパスカードがあれば用が足りるキャッシュフリーの運営となっている。
「地下鉄もバスもオクトパスで乗れるから、生活の多くがこれ1枚でできる。なくしたら大変です」。そう話す住民の女性(37)は、施設内の自動販売機にカードをかざして飲み物を購入していた。
オクトパスカードは、交通機関の利用に加え、香港全域のコンビニや飲食店での支払いにも使えるため、約734万人の香港市民には必需品となっている。無記名式のほか、クレジットカードと連動した記名式も多い。ところが、このオクトパスカードが今、反政府デモで混乱する香港で問題となっている。デモ当日のICカードの利用記録をたどり、警察がデモ参加者を特定しようとしているという疑念が香港市民に広がったからだ。そのため、多くのデモ参加者は、抗議行動に行くときは、匿名性の高い現金を使うようになっていた。
9月下旬、数時間後に始まる政府への抗議集会にマスクと帽子をかぶって参加するというデザイナーのクリスティ(32=仮名)に会った。6月に始まった大規模デモは16週目の週末を迎えていた。「会場までは現金を使ってバスで行く。オクトパスカードを使うと当局に追跡される危険がある」。クリスティは自身の写真や名前が公表されないよう何度も念押ししながら、取材を受けてくれた。香港では複数のデモ参加者が取材に応じてくれたが、全員が写真撮影や実名報道を拒絶した。個人が特定されることへの強い不安と警戒心が、ひしひしと伝わってきた。
取材に応じたデモ参加者たちによれば、カードにはそれぞれ異なる番号が登録されている。無記名式の場合でも、同じ番号のカードの動きを示す電子データを追うことで、その所有者の動きを追跡することは可能。さらに駅構内や街中にある監視カメラの映像などと照らし合わし、所有者を特定することもありえるのだそうだ。そのため、デモの支持者の中には、無記名式のICカードを大量購入し、一度のみの使い切り目的でデモ参加者に配る動きも出てきた。警察のデモ取り締まりにMTRが協力しているとして、地下鉄の利用をボイコットし、バスのみを使うようにするデモ参加者も増えていた。
実際、この日の夜、警察が大手バス会社からデモ当日の利用者のICカード情報を裁判所を通じて押収したと報道された。その記事をメールで送ってくれたクリスティは嘆いた。
「中国政府がデジタル通貨を通じて個人情報を悪用する危険性は香港市民なら誰でも認識している。それが香港でも起きた」。だからこそ、市民が自ら立ち上がらないといけないと強調し、「1997年の香港返還時、50年間は一国二制度を維持するとした約束が形骸化し、香港の政府や警察でも中国化が進んでいる。この中国化を阻止するための闘いが、今の抗議行動なのです」と訴えた。
中国への不信感は、香港での普及に力を入れるアリペイなどの中国系ペイアプリの普及にも影響している。デモ参加者の会社員ベティ(46=仮名)は、中国当局に個人情報を握られる懸念から、中国のペイアプリを利用しない。「中国を相手にビジネスをする人を除けば、個人的に利用する人は周りにはいない」と言い切る。「デジタルマネーは個人情報のかたまりであり、情報を握る者は覇権も握る。中国の圧力と闘っている香港人は、そのことをよく分かっている」