「水素」という選択――地球温暖化対策の切り札となるか
かつて炭鉱町だったドイツの小さな町ヘルテンが今、大変貌をとげている。ここは2000年に閉鉱するまで約9千人が働く炭鉱の町だった。
莫大な量のCO2を排出していた化石燃料の町は現在、クリーンな水素エネルギーの開発拠点として生まれ変わり、低炭素社会の実現に向けた大規模な実証実験プロジェクトの舞台となっている。
そのヘルテンにある水素に関する開発拠点「h2herten」で、旭化成が風力電源を使って水素を生成する「グリーン水素」の実証プロジェクトを進めている。
「水素を作る過程でも再生可能エネルギーを使い、CO2を排出しない。これで初めて真の意味でのクリーンエネルギーになると考えています」。そう語るのは旭化成株式会社上席理事、研究・開発本部クリーンエネルギープロジェクト長の竹中克さん。
水素は酸素と化学反応させると水に変わり、その時に発生する電気をエネルギーとして利用することができる。その際にCO2を排出しないことから究極のクリーンエネルギーと呼ばれ、地球温暖化対策の切り札として世界から注目を集めている。現在はガスや石油などの化石燃料から水素を取り出す方法が主流だが、水素を作る過程で大量のCO2が発生してしまうため地球に優しいエネルギーとはいえない。旭化成が開発した「グリーン水素」製造装置は、再生可能エネルギー由来の電気で水を分解するため、CO2が一切発生しないという。
ではなぜ今、欧州でエネルギー源としての水素の需要が高まっているのだろうか。その背景には、地球温暖化、脱炭素化の気運があると竹中さんは指摘する。2016年に発効したパリ協定の存在、そして欧州のこの夏の異常な暑さもあって、人々の温暖化対策への意識が急速に高まっている。
「温暖化に加え、ディーゼル車による大気汚染も深刻化し、古い年式のものはパリの中心地に入ることを規制されたり、罰金を取られたりしています。パリ市内のPM 2.5は、今や北京よりもひどいといわれています。ロンドンもマドリードも同様です。クリーンなエネルギーにシフトしていかなければならないという気運が非常に高まり、エネルギー源としての水素の注目度は年々増しているのを感じます。」
ドイツでは2018年から、世界初の水素燃料電車が走り始めた。実はいまでも、ドイツの鉄道は50%がディーゼルで走っている。
「いまから電化率を100%にするには現在の国家予算だと約100年かかるそうです。だったらもう水素の電車を走らせようと。町中のトラムも現在、ディーゼルが多いですが、水素を使って走らせる動きは少しずつ加速しています」
エネルギー貯蔵としての水素の役割にも期待
ドイツでは国内の原発を2022年までに全廃する方針を打ち出し、今や電力の約40%を「風力」を中心とする再生可能エネルギーで賄っており、2050年には電力の80%以上を再生可能エネルギーにする目標を掲げている。
しかし、そんな再生可能エネルギー大国ドイツにも悩みがある。
「風力の場合、風がたくさん吹くと電気がたくさんできますが、ドイツは南北を走る送電網に十分な容量がないのです。そのため、できた再生可能エネルギーはその地で使う地産地消がメインになります」
ドイツは北海に面した北側で風が強く風力発電が盛んだが、工業地帯はシュツットガルトなど南部に多い。そこで、余剰電力で水素を作ったり、さらには水素とCO2からメタンを作りパイプラインで送ったり、ほかの地域でも使う取り組みが進む。
「ヨーロッパは日本と違い、天然ガスのパイプライン網が縦横に張り巡らされており、電気で送るよりもガスで送った方がいい場合もあります」
また、再生可能エネルギーは自然に左右されるので常に安定供給ができるわけではない。だから貯めて使うインフラ技術も重要なのだ。再生可能エネルギーの余剰電力から水素を製造・貯蔵するPower to Gasは、まさに電力供給の不安定さを補う蓄電技術といえよう。
水素エネルギーの使用で今、一番進んでいるのは交通用途だ。FCVやFCバスがその代表で、トラックや船などへの応用も考えられている。
「東京も実はトヨタ自動車と日野自動車が共同で開発したSORA(ソラ)というFCバスが既に15台走っていて、2020年夏までに100台まで増やそうとしています。そういう意味では東京も世界に冠たるFCバスを持っている都市になるんですよ」
積み上げた技術で欧州のトップを目指す
旭化成と水素のかかわりは約100年前に遡る。創業の地・宮崎県延岡市で1923年にアンモニア製造用に水素の製造をはじめた。
いかに少ない電気でたくさんの水素を作れるかが技術開発のポイント。そこに活かされるのが長年積み重ね磨き上げてきた三つの技術、「電解セルの構造」、「電極」、「膜」だ。
「一つ目の『水電解の電解セル』は40年以上の食塩電解の事業で磨いてきた技術をベースに開発し、また二つ目の『電極』には当社が水島(岡山県倉敷市)にプラントを建てた頃からずっと培ってきた石油化学の触媒の技術の応用が活かされています。三つ目の『膜』は、リチオムイオン電池のセパレーター(絶縁膜)の技術が活用されています」
ヘルテンでの実証実験における最大の課題は水素製造コストの削減だ。竹中さんは「いかに安い電気をつかまえるかが重要」と強調する。
再生エネルギー普及率を定めるRED2(EU再生可能エネルギー指令)が昨年末に制定されたこともあり、グリーン水素の市場は2025年ぐらいから急速に右肩上がりになっていくと竹中さんはみている。
「ヨーロッパでは既に火力発電所を作るよりも再生可能エネルギー発電所を作るコストのほうが安くなってきていているという現実もあります。今は世界中の企業が欧州市場を虎視眈々と狙っている状況。旭化成としては欧州でトップを取れる技術をしっかり作っていくために今、取組みを進めています」
クリーンエネルギーからグリーンケミストリーへ
「私は今、このクリーンエネルギーからグリーンケミストリー、地球に優しい化学品につなげていきたいと思っています。我々が培ってきた旭化成の化学技術をいかして地球に環境に優しいモノをつくっていきたい」と竹中さんは言う。
例えば、火力発電所から回収したCO2を水素と反応させるとメタノールなどに変換でき、これをまた燃料として循環的に使うことができる。CO2を炭素資源としてとらえる発想だ。
「メタノールにすると既存のインフラが使いやすくなります。通常のエンジンでもメタノールは、ある程度入れられるので、ガソリンの代替としてCO2をリサイクルすることは実際行われようとしています」と竹中さん。
「水素と空気から直接アンモニアを作ってグリーン肥料にする。CO2を排出しない化学肥料は今後、需要が出てくるのではと思っています。あるいは、そのCO2を原料としたポリマーということでプラスチックにCO2を固定化することも考えています」
竹中さんには三人のお子さんがいる。
「子どもたちに住みやすい地球を残していくことが、やはり我々、特にこの科学文明を享受している先進国のメンバーの絶対義務なんじゃないのかなと思うんです」
そんな世界共通の目標を実現するために必要なこと。それは「仲間」だと竹中さんは強調する。
「空ってつながっているじゃないですか。境がないですよね。だから世界中の皆さんと一緒に協調していかないと、この問題は避けられない。お客さんにクリーンなエネルギーを適正な価格で届ける。そこまでを我々の使命だと考えてやっていかなければと思っています」