『ピータールー マンチェスターの悲劇』は、1819年8月16日に英マンチェスターのセント・ピーターズ広場で起きた「ピータールーの虐殺」が起きるまでの物語を、できる限り忠実に再現しようとした作品だ。
英国など欧州諸国を巻き込み泥沼化したナポレオン戦争がワーテルロー(英語読みはウォータールー)の戦いで終わりを告げるや、英国では人々が、暮らしに欠かせないパンの価格高騰や高い失業率にあえぎ、各地で不満を募らせていた。税金でぜいたくに暮らす王室や貴族院にも怒りの矛先が向けられるうち、人身保護法が一時停止、逮捕状がなくても国民を拘束できる事態に至る。
マンチェスター・オブザーバー紙の創刊者らも乗り出して、市民の声を政治に反映させるための権利を求めた抗議集会の計画が進められ、英国の著名な活動家ヘンリー・ハント(ロリー・キニア、41)も駆けつける。平和的な非武装の集会だったが、王家がギロチンにかけられたフランス革命の再来を恐れる王室や貴族院はあわてふためき、強硬手段に出る。
「ピータールー」はマンチェスター・オブザーバー紙の記者が、ワーテルロー(ウォータールー)の戦いとセント・ピーターズ広場をかけ合わせて命名したという。
リー監督は『秘密と嘘』(1996年)でカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞、アカデミー賞には計7度ノミネートされた、英国を代表する監督のひとりだ。
リー監督はマンチェスターで生まれ育ったが、それでも、この事件について「本当に知らなかった。私たちが大きくなる頃、多くがこのことを知らなかった。19世紀にこれだけ大きな事件が起きて、哲学者にも影響を与え、政治的にも大きい、とても大事な歴史上のできごとなのに」。そのうえで、中国の天安門事件や、北アイルランドでデモ行進中の市民が英軍に銃殺された「血の日曜日事件」などを挙げながら、「民主主義が抑圧された事件に匹敵するひとつだ」と語った。
リー監督は本などを通してこの史実を知り、2014年に映画化を決めた。「これまで映画になっていなかったというのが大きな理由だ。映画にするべきだという、ある種の直感があった」。歴史家とともにリサーチを重ね、ディテールの再現に努めたというリー監督に、その過程で何に最も驚いたか尋ねると、「一度掘り起こし始めると、すべてが文字通り驚きだった。どれか一点に絞れないくらいだ」と返ってきた。英国で公開した際も「多くの人が本当に『知らなかった!』と言った」そうだ。
とはいえ、「映画化は適切でタイムリーだと感じたものの、当時はそこまでタイムリーで今日的になるとは予想もし得なかった」とリー監督は言う。
今作の製作の傍ら、世界では「民主主義の後退」が進んだ。英国は欧州連合(EU)離脱をめぐる迷走が続き、米国ではトランプ大統領のいわば独裁的な国家運営への支持と反発による分断が広がるばかりだ。スペインでは北東部カタルーニャ自治州の独立派と反独立派がデモを繰り広げ、治安部隊も乗り出して多くの負傷者が出た。フランスは2018年から政権に抗議する「黄色いベスト」運動が吹き荒れ、多くの人たちが負傷・拘束。香港では「逃亡犯条例」改正案の撤回を求める大規模なデモと警察の衝突が激しさを増し、中国政府の断固たる姿勢を背景に、収束が見通せない状態が続く。
「2014年には予測もできなかったが、世界はどんどんおかしくなり、この5年で壊れてしまった。映画製作の準備やリサーチを始めてすぐ、それを実感した。私はイタリアやスペインでも映画を撮ってきたが、極右の台頭や様々な抑圧を見て、明らかに感じるものがあった。今作は、今までにも増して今日的になっている。香港を見てもわかるだろう」。スペインのカタルーニャ州バルセロナで上映した際は、「観客はカタルーニャ独立運動に引きつけて見ていた」とリー監督は言う。
今作では、市民が権利を持つことを過剰に恐れる既得権益層の滑稽な様子も描かれる。「権力を持つ人間や、権力を乱用する人間のありようは普遍的だ。映画は19世紀初めのイングランドを描いているが、その意味するところや今日性は万国共通。権力を持ち、それを乱用する人間はいつもそうだ」
その結果、ただ自分の暮らしのために声を政治に反映させたいと選挙権を求めた人たちが、無残にも命を奪われた。事件後は支配階級による抑圧や検閲がさらに厳しくなったというし、英国の普通選挙の実現は男性が1918年、女性が1928年と、事件からさらに約1世紀も待たなければならなかった。だが、これを機に、批判精神の旺盛な英紙ガーディアンが、マンチェスター・オブザーバー紙の精神を継ぐ形で1821年に創刊されるなど、歴史的に大きな意義をもたらしている。
「この映画でより明確に感じるようになったのは、選挙権のため闘った200年前の人たちが、もしタイムマシンに乗って21世紀にやって来て、投票しない人たちを見たら、驚き呆れ、嫌な気持ちになり、当惑し混乱することだろう。投票する権利があるのに使わないなんてとんでもない、と。私もまったく同意するだろうね」
戦後2番目に低い投票率となった参院選を経たばかりの日本としても、耳が痛い。
「豪州では投票が義務になっている。個人的に、それは悪くないと思っているよ」。リー監督は言った。
英国はそうした血塗られた歴史を経て、世界最古の民主主義国のひとつとなっている。でも今やEU離脱の議論で社会は二分し、民主主義の危機が言われる。リー監督は言う。「英国がEUを離脱するなんて考えはばかげていて無責任で、まったくのナンセンス、まったくの大失敗だ。カオスのような大混乱になっている。残念なことに、離脱に投票した人たちの理由は間違ったものだった。どんな大惨事をもたらすか、彼らの多くは本当には理解していなかった。国民投票はやるべきではなかった。破滅的な状況だよ」
その英国のかつての植民地・香港については、「中国の抑圧的な体制について懸念している彼らを理解できる」とリー監督。「明らかに言えるのは、抑圧体制や民主主義の欠如に人は抗うということ。最低限、大事なことだから」
ただ、今や世界第2の経済大国となった中国に対し、人権侵害で強く抗議する国や地域、人物は明らかに以前より減った。そう言うと、リー監督は「そうした世俗的な理由で、言うべきことや抗議すべきことを公言しないのは悲劇だ。私は外交官ではないし、外交はもちろん複雑なものだが、英国はとりわけ香港を守るべきだ」と語った。
事件から200年を迎える今年8月、英国の地元では記念の催しが予定されている。「私も行くよ」。そう言うリー監督に、日本ではデモをしても何も変わらないといった空気が広がっていると言うと、こう返ってきた。「私が言うべきことは、この映画が語っているよ」