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日本の人事は「貢献主義」を目指せ

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立命館大学教授の髙橋潔さん=玉川透撮影

■「不満」は評価の宿命

そもそも人事評価とは、不満と隣り合わせになるのが宿命だ。米国の2人の心理学者が1999年に提唱したダニング=クルーガー効果によると、能力の低い人ほど自分を過大評価する傾向にあるという。こうした人間の心理を反映すれば、人事評価でも、される側の8割以上は自分の仕事ぶりが平均以上だと思っている。客観的かつ正確に成果を評価し、相対的に調整できたとしたら、半分は平均以下になるはずだ。だから、平均的な人に「あなたの仕事ぶりは普通だ」と正しい評価を返したとしても、ほとんどの人は不満を抱くものなのだ。そして、評価する立場の上司の側も不満を抱えている。

その歴史は、東洋は驚くほど古い。中国古来の王朝である漢や唐には、「考課」制度と呼ばれる叙位の仕組みがあった。日本にもこれが伝わり、大宝律令(701年)の中に「考仕令」が定められている。

近代日本では、二つの大きな転換期があった。一つが1970年代、欧米から輸入した職能資格制度の普及だ。仕事に関わる能力を評価するものだが、実際、能力の評価は難しい。結局、なじみ深い年功制を織り交ぜ、与えられた仕事でどれだけ経験を積んだかで能力アップと見なした。

だが90年代に入り、バブル崩壊で立ちゆかなくなる。企業が回復の起爆剤にしようとしたのが米国の成果主義だった。実際はだいぶ違うが、成果を給与に反映するという形だけを取り入れた。欧米のように転職が自由なら、成果が出なければ職場を替えればいいが、長期雇用の日本では、評価されない社員は不満を抱えながらも同じ会社に居続けなくてはならない。「成果とはなにか」「努力の過程を見て欲しい」。成果主義への不満がくすぶり続けた。

現在は、所属長が部下と定期的に面談し、設定した目標をどれほど達成したか、高い成果につながる職務遂行能力がどれだけあるかという二本柱で評価する。ただ、これも誰もが納得する仕組みではない。

■「ノーレーティング」の衝撃

2010年代、人事の世界に激震が走った。米国で評価そのものをやめてしまう「ノーレーティング」という動きが出始めたのだ。成果のあり方が変質したり、報酬格差がエンゲージメントにつながらなかったり、評価制度が機能不全を起こしたりしたことなどが原因だ。

かつて、組織の人材の分布は「2:6:2」が想定されていた。上位の2割が組織をひっぱり、中位の6割が支え、2割のできない人がいても成り立つ。だが今は、一握りのスター人材がほとんどの成果を上げる。この状況では中間の6割が下流化していく。評価に納得できないのに処遇に差がつけられると、だまされたような気になる。変化のスピードが激しく、目標設定のタイミングも合わなくなっている。だから、評価自体をなくしてしまおうという結論になった、と私は考えている。

こうした変化は、グローバル化とITテクノロジーの進化によるビジネス環境の変化が背景にある。しかし、人間が働くのは報酬のためだけではない。会社の雰囲気や自分の成長、やりがいなどを感じるから人は動く。それを所属長と話しあって調整していくプロセスは必要だ。だから、組織に何らかの形で評価は必要だと考えている。

ただ、AIなどテクノロジーを使った人事評価は、もはや進めざるを得ない。米国や中国などはかなり先を走っている。最終判断は人間がするとしても、今から率先して導入していかないと、外国人や障害者、アルバイト、高齢者などが同じ職場で働く時代に、世界のトレンドに取り残されてしまう。

今後、日本の人事評価がめざすべきは、「貢献主義」だと思う。成果主義は会社に対して利益的にどれだけ貢献したかが基準だが、貢献の定義はそれぞれが自由に決めればいい。社内の雰囲気をよくしたいから社員一人ひとりに花をあげるとか、ボランティア活動を通して会社の知名度や社会的責任(CSR)をアップするとか、そういった貢献でもいい。もちろん、この貢献目標も独りよがりではダメで、上司からOKしてもらうとか、同僚から賛同を得られなければいけない。

そして、「貢献主義」では、成果を強調しないので、個人成果に基づいた報酬格差はつけなくてもよくなるだろう。会社全体の業績が上がればボーナスのような形で貢献度に応じて全員に報いる。社員全員に持ち株を持たせて、株価が上がったらそれぞれがもうかるという形もありえる。中国の華為技術(ファーウェイ)の報酬制度などは、それに近い形かもしれない。そんな仕組みが作り上げられれば、人事評価は真の意味でいらなくなるかもしれない。

■特集「評価なんてぶっとばせ!」連続インタビュー