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「サンバのゴッドマザー」 ベッチ・カルバーリョ72年の生涯

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リオデジャネイロの自宅で撮影に応じるベッチ・カルバーリョ=2018年1月8日、Dado Galdieri/©2019 The New York Times

「サンバのゴッドマザー」として知られるブラジルのシンガー・ソングライター、ベッチ・カルバーリョが2019年4月30日、リオデジャネイロで死去した。72歳だった。同年1月初旬から入院していたプロカルジアコ病院の声明によると、死因は敗血症だった。

カルバーリョは50年以上にわたって歌い続け、何度もゴールドアルバムやプラチナアルバムを出してきた。その音楽人生の中で、何世代にもわたってサンバの作曲家、作詞家の活動を重要な節目で支えてきた。くすんでいるような声、起伏のあるアルトで、強烈なアップビートが魅力だった。彼女はさまざまなサンバのスタイルを取り込みながら、しかし流行の最先端に流されずに、サンバを近代化してきた。

09年、彼女は女性のサンバ歌手として初めてラテン・グラミー賞の生涯業績賞を受賞した。「ブラジル音楽の歴史に不可欠な役割を果たした」とたたえられた。

数々のアルバムを通して、カルバーリョはいつも打楽器と伝統的な小型のギターである「カバキーニョ」のアップテンポなリズムに駆り立てられるように発声し、まるで仲間内のパーティーのように、陽気なバックコーラスが加わる。

「サンバは抵抗(の音楽)だ」。彼女は16年、Brasil Onlineとのインタビューでそう語った。だから「アーティストは(抵抗に)取り組まなければいけない」とも語った。

本名エリザベッチ・サントス・レアウ・ジ・カルバーリョ。1946年5月5日、リオデジャネイロ生まれ。父は弁護士のジョアン・フランシスコ・レアウ・ジ・カルバーリョ、母はマリア・ナイール・サントス。市南部地域の中産階級の家庭で育ち、早くからギターを弾き始めた。

父は、サンバスクールの演奏練習を聴きに、娘を比較的貧しい北部地域に連れて行った。その演奏のリズムと精神が彼女の音楽の核になった。

64年、ブラジルは軍事独裁政権になり、左翼だった父が逮捕された。父の政治思想は彼女にも大きな影響を及ぼした。

カルバーリョの最初のレコーディングは60年代で、ボサノバを歌った。68年、ブラジル国際歌謡フェスティバルで「アンダンサ」を歌い、3位入賞した。「アンダンサ」は翌69年に発売された彼女の最初のソロアルバムのタイトル曲になった。しかし、それから間もなく、彼女はボサノバの気取った自己抑制的なスタイルを捨て、サンバにかじを切った。

70年代のアルバムでは、ほとんど忘れられていたサンバの作詞・作曲家だったネルソン・サルジェント、カルトーラ、ネルソン・カバキーニョらに注目。新しい題材の歌を求め、それまで聴いたこともなかった彼らの作品を歌ってヒットした。

70年代後半、カルバーリョは新しいサンバ形式に引き付けられていった。「pagode(パゴージ)」と呼ばれるサンバだ。リオデジャネイロで行われる普段着のパーティーの中から生まれたスタイルで、大抵は音楽家がテーブルの周りに座って演奏した。演奏には楽器のカバキーニョの調べに似たバンジョー、コンガ(たる形の胴の上面に皮を張った打楽器)に似た「タンタン」と呼ばれる太鼓が加わるのが代表的な形だ。

カルバーリョは、ジョルジ・アラゴンやアルミール・ギネトらがメンバーだったパゴージのグループ「フンド・ジ・キンタル」をアルバムの中で生き生きと登場させた。同グループは彼女の78年のアルバム「私の道」の演奏を担い、すぐに自身のアルバムを出して、ブラジルのプラチナアルバムになった。

このアルバムに入っている「お祝いしよう」は、ブラジルのサッカーファンにとっての応援歌の一つになった(なお、カルバーリョの葬儀は2019年5月1日、彼女が生前応援していたサッカーチーム「ボタフォゴFR」のクラブ本部で執り行われた)。

リオデジャネイロの自宅でくつろぐベッチ・カルバーリョ=2018年1月8日、Dado Galdieri/©2019 The New York Times

彼女が1978年に歌った「父のささいなこと」は、NASA(米航空宇宙局)の技術者が火星探査「マーズ・パスファインダー」のロボット探査機に(訳注=米紙ワシントン・ポストによると、いわゆる目覚まし用の曲として)プログラムされた。83年のアルバム「顔に汗」では、作曲家のゼカ・パゴジーニョをゲストに迎えた。彼にとっては、これが初めてのレコードデビューだった。パゴジーニョはその後、サンバのヒットメーカーになった。

カルバーリョは79年にブラジルのサッカー選手だったEdson de Souza Barbosaと結婚した。Barbosaは2015年に死去。2人の間には娘のルアナ・カルバーリョがいる。

1970年代から2010年代に至る長い間ブラジルで多くのヒット曲を出したカルバーリョだが、ブラジルの幾多の有名歌手や作曲家と協力し合って、世界各地をツアーして回った。彼女はさまざまなサンバスクールの歌を残したが、生涯親密に関係していたのはリオデジャネイロで最古の歴史と名声を持つスクール「マンゲイラ」だった。

カルバーリョが生涯をかけて尽くしたのはリオデジャネイロの音楽だったが、1993年にはサンパウロからサンバのアルバムを発表し、2007年にはバイーア州サルバドールで06年に開いたコンサートのCDとDVDを出した。このコンサートにはカエターノ・ベローゾ、カルリーニョス・ブラウン、ジルベルト・ジル、ダニエラ・メルクリ、その他多くのバイア出身歌手も参加した。

03年から08年にかけてブラジル文化相まで務めたジルベルト・ジルは、カルバーリョの死を「取り返しのつかない喪失だ」とツイッターに記した。

カルバーリョは09年に脊椎(せきつい)の深刻な病を患い、長期入院せざるを得なくなった。それでも可能な限りレコーディングを続け、ツアーにも出た。11年のアルバム「私たちのサンバは路上にある」(英題、原題はNosso Samba Tá na Rua)はベスト・サンバ・パゴージ・アルバムとしてラテン・グラミー賞を受賞した。晩年は車いす生活だったが、18年にはリオデジャネイロで背中の痛みをこらえ、横になりながらコンサートを断行した。

16年のBrasil Onlineのインタビューで、カルバーリョはこう語っていた。「サンバはブラジル人の真の声。サンバは命であり、癒やしである。サンバなくして人生はあり得ない」(抄訳)

(Jon Pareles)©2019 The New York Times

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