1. HOME
  2. World Now
  3. 米中の対立、軽々しく「冷戦」と呼ぶべきではない 

米中の対立、軽々しく「冷戦」と呼ぶべきではない 

ことばで見る政治の世界 更新日: 公開日:
北京の人民大会堂で共同声明を発表、握手するトランプ大統領と習近平国家主席=2017年9月、ロイター

■ある外交官が残した教訓

その外交官とは、ソ連に対する「封じ込め政策」を立案したジョージ・ケナン(1904~2005)である。彼の1世紀を超える生涯の中で、外交の実務で活躍した期間は、30年にも満たない。古典的名著「アメリカ外交50年」をはじめとする歴史書、ピュリッツァー賞を受賞した回顧録などを残したため、文才の誉れの高い学者のイメージが強いが、外交官ケナン語らずして、冷戦の歴史を描くことはできない。

米国務省企画室長を務めたジョージ・ケナン氏は、日本占領政策でも大きな役割を果たした=1948年、羽田空港で。朝日新聞社撮影

それは、1946年2月のこと。ケナンは、モスクワのアメリカ大使館の公使兼参事官だった。第2次大戦が終わって半年もたっていない。戦争中はドイツと日本に敵対する同盟関係にあったため、ワシントンには、戦後もソ連との協調関係が続くという楽観的な気分が残っていた。国務省きってのロシア通であり、スターリンの強権的政治手法を熟知していたケナンは、そんな自国政府のナイーブな考えに苛立っていた。

そのとき、ワシントンからソ連外交の分析を求める依頼が来た。ケナンはその返信として、8000語に及ぶ電報に自分の見解をまとめる。これが、史上名高い「長文電報(the long telegram)」である。

次のような趣旨だった。

ソ連の対外行動は、外部世界に対するロシアの伝統的、本能的不安感に基づくものであり、基本的には国内的な必要性によって規定されている。ソ連の権力は、ヒトラーほど計画的でも冒険的でもないが、力の論理にはきわめて敏感である。西側に比べるとソ連は、はるかに脆弱な勢力である。したがって、西側の結束した力を見せれば、撤退させることができる。

電報はワシントンにセンセーションを巻き起こした。アメリカ政府内でちょうど芽生え始めていたソ連への不信を裏付けるもので、ケナンはワシントンに呼び戻され、翌1947年には国務省に新設された政策企画室長となる。アメリカの冷戦外交を象徴する政策、「封じ込め(containment)」はケナンが提唱したものだ。

こうしてアメリカ外交のかじ取りをまかされたケナンであったが、1953年に49歳の若さで国務省を引退し、学究生活に入る。ケナンはやがて、自ら提唱した「封じ込め」が誤解され、あやまって運用されたとして、アメリカ外交の批判者に転じた。

冷戦時代だった1980年にNHKの番組に出演するため、来日した。ケナンはその際、「封じ込め政策」の真意を次のように語っている。

「当時私が懸念したことは、ソ連が政治的に膨脹する危険でした。多くの人が私の意図を頭から軍事的な封じ込めと考えてしまったのです。真の危険は、戦争で混乱していた西ヨーロッパや日本が、『共産主義こそ未来の波だ』という気になり、共産主義を信奉するようになることでした。それは阻止することができる、と私は考え、事実、成功したわけです。問題は、進出してくる気もないソ連軍をせきとめることではなかったのです。ところが、アメリカと西ヨーロッパでは、問題はソ連を軍事的に封じ込めることにあるという考え方が根を下ろしてしまい、その後、西ヨーロッパが安定してソ連と交渉できるところまできたとき、西側ではだれもソ連と交渉を始めようとはしませんでした」
(要旨、NHK「日本の条件」のインタビューで)

また、冷戦終了後の1995年、イギリスBBCの番組では、こう語っている。

「封じ込めとは、軍事力を背景にした政治的抵抗なのです。それが冷戦期を通じて、軍事的考慮が圧倒的になった。封じ込めは、手段だったのに、それ自体が目的となってしまった。我々は膨大な金を無駄な軍事費に使ってしまった。こんな状況に陥るべきではなかったのです」

ケナンは、ロシア革命後のソ連と西側の厳しい関係を考えると、冷戦の発生自体は不可避だったと考えた。しかし、冷戦がこれほどの規模でこれほど長く続いたのは間違いだと言うのである。

■「米ソ戦争の危機、3回あった」

米ソ冷戦については、もうひとりのアメリカ政府高官の回想を聞こう。

1962年10月、ソ連はアメリカの裏庭とも言うべきカリブ海にミサイル基地をつくり、核兵器を持ち込もうとしていた。キューバ危機である。

アメリカのケネディ大統領は海上封鎖で応じた。辛抱強い秘密交渉の末、ソ連のフルシチョフ首相はミサイル撤去を受け入れ、超大国の軍事衝突はぎりぎりでは回避された。当時アメリカの国防長官として陣頭指揮を取っていたマクナマラは、冷戦後の1992年にキューバをたずね、最高指導者のカストロ議長から驚くべき事実を聞く。

マクナマラ元国防長官は退任後、自ら携わったベトナム戦争に批判的になり、「過ち」と認める回想録を出した。晩年は核廃絶を唱えた。2001年8月7日、ワシントン、三浦俊章撮影

アメリカ軍は、キューバには核兵器がまだ持ち込まれていないという前提で、すべてを計画したのだが、実はすでに核ミサイルは配置され、カストロはキューバの自滅も覚悟して、ソ連のフルシチョフ首相にミサイル使用を進言していたという。

「危機一髪だった。核戦争にならなかったのは、我々が単に運が良かったからだ」とマクナマラは驚愕した。そして次のように付け加えた。「今の人には当時の状況が分からないだろうが、私が国防長官をしていた7年間にソ連との戦争の危機は3回あった。あれは冷戦などではない。熱い戦争だったのだ」(ドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー」での回想)

冷戦期の指導者たちの回想を聞くにつけ、現在の我々がどこまで冷戦の歴史を知っているのか、怪しいことに気づく。ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体という、耳に心地よいストーリーのみが好んで語られ、実は米ソ冷戦自体が、様々な意図の読み誤りで長引き、人類破滅の一歩手前でかろうじて踏みとどまったことが忘れられているのではないか。

昨年10月、ペンス米副大統領がシンクタンクの演説で、中国に「断固として戦う」と宣言すると、これは米ソ冷戦の開戦を告げたチャーチルの「鉄のカーテン」演説に匹敵するという報道が流れた。これに対して、中国の習近平国家主席が11月に「もし対抗の道を歩むなら、冷戦であれ、戦争であれ、貿易戦争であれ、真の勝者がいないことを歴史は教えている」と演説すると、これまた会場は拍手に包まれたという。非難合戦はとどまるところを知らない。米中冷戦ということばが飛び交うわけだ。

だが、待ってほしい。米中の「冷戦」を語る前に、そもそも中国の狙いとは何か、自分たちの中国に対する見立てがはたして正しいのか、検証すべきことは多いはずだ。

米ソ冷戦の真実を知るにつれ、「冷戦」ということばを軽々しく使うべきではないと思う。ましてや、軍事力の対立のみで国際政治を考える愚かしさを、いまも繰り返しているとしたら、恐ろしいことだ。ことばは、それを使うことで、現実を引き起こすことがある。予言の自己実現は防がねばならない。