高級魚を次々と庶民の食卓へ 養殖の天才・瀬尾重治が目指すウナギというフロンティア
どの屋台の水槽にも「龍虎斑魚」などと呼ばれるハタが泳いでいる。以前は屋台街では口にできなかったが、瀬尾が世界で初めて養殖に成功した品種「タイガーGG」が高級魚だったハタの価格を4分の1ほどに下げ、庶民にも「ぜいたくだけど、手が届く味」になった。いまや、タイガーGGは東南アジアや台湾、中国などで流通するハタの大半を占める。
瀬尾は、これまで難しいとされてきた種の養殖を次々と成功させ、高級魚を庶民の食卓に上る魚に変えてきた「魚飼い」だ。相次ぐ「世界初」の成功に、同業者から「秘密のホルモン剤を持っている」とうわさされたこともある。「特別なホルモン剤も魔法も使ってないし、やり方は全部公開してきた。ただね、ぼく天才なんですよ」。そう言って、笑った。
魚はいま、心地がよいのか。苦しいのか。何をほしがっているのか。一目見れば瀬尾にはわかる。「一瞬で魚や水の状態を見抜く。追いつけない才能」。孵化場の場長などとして20年近く瀬尾を支え続ける博士、チン・フイフイ(38)は言う。
魚との付き合いは、岡山県倉敷市で生まれ育った子どもの時からだ。備讃瀬戸の海まで徒歩5分。豊かな池に川。フナやアイナメを眺めては「あれを全部釣るにはどうしたらいいか」と野心を燃やす釣り少年は、勉強は全くしないで育った。
高校3年の時、書店にあった参考書で近畿大学水産学科の写真を見てひらめいた。「俺はここに行くな」。当時の近畿大学は「海水魚養殖の父」と呼ばれた原田輝雄教授が水産研究所の所長を務め、熱気にあふれていた。難しいとされていたブリやカンパチなどの養殖を次々に実現。「休みがなくても、寝なくても魚を飼いたいという人ばかりで集団興奮状態だった」
原田が取り組んできたクロマグロの養殖で、人工飼育下で幼魚から育てたマグロが初めて「親」となる産卵を迎えた。大学4年になっていた瀬尾は卵の飼育担当に手を上げた。
この時、瀬尾の指導にあたったのが原田の助手、村田修(78)だった。瀬尾が泊まり込む実験場に夜中にふらりと現れては、水槽をちらりと見て「明日、これ死ぬぞ」と指さし、説明もせずに去っていく。そして翌日、たしかにその魚が死ぬ。「不思議なおっさん」だった。
「なんでおっさんにだけわかるんや」。とうとう尋ねると「毎日見ているから、わかるんや」。半信半疑で魚を眺め続けると、ビーカーにとるとキラキラする稚魚に気づいた。弱ると水流にあらがえずにくるくると回り、痩せてギョロリと飛び出した目が光るのだ。
筋肉が発達しない稚魚は頭が大きく見える。体表の輝きがなくなる─。ギタリストは毎日ギターに触れないと演奏がにぶる。「魚を見る」感覚も、毎日見続けないと研ぎ澄ませられないと知った。いま、近畿大名誉教授となった村田は振り返る。「どんなに言われても、最後までわからない人もいる。瀬尾君は自分の目で魚を飽きずに見続けた。そのしつこさが、彼の才能だった」
世界で初めて、人工育ちの親から生まれた稚魚は瀬尾のもとで最長47日間、生存。国内外のメディアにとりあげられる快挙になった。「俺は魚を飼って生きていく」。成果を卒業論文にまとめ終えた時、瀬尾には自信が芽生えていた。
大学卒業後に青年海外協力隊に入ったのは、外国暮らしに憧れていたからだ。当時、最貧国の一つだったザンビアの、首都から400キロ離れた村へ派遣され、飢餓の現実を目の当たりにした。子どもたちは骨ばかりの野鳥を奪い合って食べていた。
ザンビアには川魚を食べる習慣はあったが養殖技術はなかった。ここで、育てやすいコイを養殖しよう─―。一から水槽を掘り、ポンプを設置。だが、2年かけて産卵できるまでに育てた親魚をおなかをすかせた職員に盗まれた。自分がいくら天才でも100万尾のコイを作るのが精いっぱいだ。でも確実に魚を作れる魚飼いを100人育てれば安定して魚を供給できる。
魚だけではなく、人も育てたい。ザンビアから帰国した後、瀬尾はJICAの専門家としてマレーシア農科大学に赴任。妻の智子とともにこの地に腰を据え、大学教員に魚の作り方を指導しようと考えた。
水温が高く、日差しの強い土地は水産業に理想的だ。瀬尾はここで高級魚でハゼの一種、マーブルゴビの人工環境下での生産に世界で初めて成功した。だが、悩みは深まった。魚の状態を人にうまく教えられない。なぜ稚魚は自分のやり方だとエサを食べてくれるのか。「魚飼いの勘」で導いた理屈を、自分でも理解していなかった。これでは、人を育てられない。
突破口は、苦手だった勉強にあった。瀬尾は旧知の水産学者、鹿児島大学教授の川村軍蔵を訪ねた。生粋の研究者肌の川村は魚の生態を理解し、身体機能と行動を関連づけて説明することを徹底的に教えてくれた。博士号を取得する頃には無意識だった魚の飼い方を言葉で説明できるようになった。
そんな時、マハティール首相の肝いりで設立されたサバ大学で助教授として養殖の専門家を育成してほしいとの依頼が舞い込んだ。農科大学での実績を買われた異例の抜擢だった。
それから20年。瀬尾は、東南アジアに「魚飼いの目」を持った人材を送り続けている。研究者、養殖業者、起業して大成功した教え子もいる。「先生の授業は即、実業につながる」。
ブルネイの水産会社の養殖責任者を務めながら、瀬尾のもとで博士号を取得したタン・ビーリン(44)は言う。2006年にタイガーGGの養殖に成功した際、瀬尾はハタの精子を氷で冷やして保存する技術「アイススパーム」を開発したが、「特許には興味がない」と一般に公開。これが爆発的普及につながり、タンの会社でもハタの養殖が容易になった。「先生が技術を出し惜しみしなかったことで、ハタのおいしさが世界に広まった」
水産学は、消費者や水産業者を富ませるためにある。「売れてなんぼ」が信念だ。学生たちは育てた魚を市場で売って「食卓に求められる魚」の感覚を養う。稼いだ金で日本に短期留学し、近畿大学や水産会社で訓練を積んで帰国する。
「求められる魚」の最後のフロンティアは、ウナギだ。天然の稚魚を漁獲して養殖する今のやり方では安定供給ができない。瀬尾は16年、サバ大学に「近大・サバ大水産養殖開発センター」を立ち上げ、「バイカラ種」という成長の早い種を卵から養殖する研究を始めた。だが、ウナギの生態には不明点が多い。壁にぶつかった瀬尾は昨年4月、近畿大学に転籍した研究者でニホンウナギ研究の第一人者の田中秀樹(61)に協力をあおいだ。同い年でライバルの田中に「一人でできることには限界がある。互いにええとこ取りしたい」と言う瀬尾に、田中は「どうにかして実現したいという熱意を感じた」。
大好きなビールを断って研究を続ける瀬尾。いつか、この東南アジアの地で、卵から生まれたシラスウナギが、群れをなして泳ぐのを見る。それが今の、一番の目標だ。(文中敬称略)
■Profile
■Self-rating sheet 自己評価シート
瀬尾重治さんは、自分のどんな「力」に自信があるのか。5段階で評価してもらうと、編集部が用意した項目に自ら「繊細さ」「義理人情」「片付け力」の三つを加えて、いずれも5をつけた。
「しつこい」と師匠に言われたほどの「持続力・忍耐力」と、教え子にとことんつきあう「義理人情」には自信がある。魚の変化を見逃さないための「繊細さ」は、特に大切にしている「力」だ。作業を無駄なく、かつ安全に行うためには「片付け力」も重要で、掃除は「マニュアル本を書けるくらい」に得意だ。自信がないのが「体力」。以前はいくらでもできた徹夜がきつくなった。
■Memo
ザンビアでの暮らし…青年海外協力隊員としてザンビアに派遣されると、瀬尾は「現地の習慣に溶け込もう」と村民と同じものを飲み食いし、夜にはトウモロコシを発酵させた酒を痛飲する日々を楽しんだ。ところが、赴任から1カ月で急性A型肝炎を発症。生死をさまようことに。「無菌状態で育った種は雑菌に弱いと、身をもって学んだ」
天皇陛下との出会い…ハゼ類などの魚類研究者でもある天皇陛下に、瀬尾はザンビアやマレーシアなどで5度、面会している。
とくにハゼの「マーブルゴビ」について説明したときは繰り出される学術的な質問にたじたじに。緊張して魚の学名を言えなくなった瀬尾に天皇陛下が教えてくれたこともある。「魚がとんでもなく好きで、非常に誠実な研究者だと感じた」
写真・ムサーブ・ウメール・アンボトーラ
Musaab Umair Ambotola
1991年生まれ。フリーカメラマン。マレーシア・セランゴール大学写真学科卒