Review01 樋口尚文 評価:★★★☆(3.5=満点は★4つ)
じわじわ焙煎する職人監督
生きることには不自由がつきものだ。LGBTにまつわる偏見が生むものから、ユダヤの食規定のように宗教の律法が課すものまで、さまざまな場合がある。本作は、人がそういった不自由を克服し、あるいは折り合いをつけながら、いかに本音の幸福をつかみとれるか、という思索の物語だ。そう考えると、真の主役は、物語の軸となるケーキ職人ではなく、未知なる彼を雇い入れるカフェ経営の女性なのかもしれない。
繊細で優しい主人公は、エルサレムからベルリンに出張でやってくる妻子ある男性とひそかな愛の生活を営むが、事故でパートナーを失う。そして全てを秘したまま男性の妻のもとで働き始める。何を思ってなのか、妻はいつ彼の秘密を知るのか、スリリングな展開に吸い寄せられる。そして、いつしか自らも彼にひかれながら、ことの顛末を知ることとなった彼女の前にはさまざまな障壁が立ちはだかる。さて、彼女はいかなる行動に出るのか。
まだ30代のイスラエルの俊英グレイツァ監督は、静謐な日常のなかに愛と自由の衝動が薫り立つまで、じわじわと映画を焙煎してゆく名職人である。
言わず語らずして全て寡黙かつ簡潔な「もののあわれ」に託す姿勢は、映画の力への確信を感じさせる。
Review02 クロード・ルブラン 評価:★★★☆(3.5=満点は★4つ)
舞台回しの料理 珍しく奏功
映画監督が物語の舞台回しに料理を使うのは、今回の『彼が愛したケーキ職人』が初めてではないが、その試みは結果として、消化不良に終わりがちだ。というのも、演出に使われる材料に繊細さが欠けているからだ。
グレイツァ監督の初の長編作品である今作も同じように、安易で単純すぎるストーリーになっていないか懸念する声があるかもしれない。しかし、心配は無用だ。監督は料理映画が陥る罠を巧みに切り抜け、現実には起こりそうもない、いくつもの出会いを語ることに成功している。映画には、不可能なことを物語にし、不可能を可能にする力がある。グレイツァ監督はそれを正しく理解している。
映画のその力を描き出しているのが、事故で夫を亡くしたアナトとその夫の秘密の恋人だったトーマスの間につむがれていく関係だ。二人が関係を築いていく過程でお菓子が役割を果たす。
お菓子はこの映画にとって、幻想的で詩的な流れを生み出す縦糸のような存在になっている。
お菓子を題材にした作品と言えば、河瀬直美監督の『あん』がある。『彼が愛したケーキ職人』は『あん』のように味わうと喜びがわいてくるおいしい物語に仕上がっている。