個人がリラックスして生産的になり、チームとしてもうまくいくのが理想です。――アディダス本社WLI担当部長、カトリン・ヘンペル
ドイツ南部ニュルンベルクから車で約30分。のどかな田舎町ヘルツォーゲンアウラッハに、世界屈指のスポーツ用品メーカー「アディダス」の本社はある。
東京ドーム約24個分の敷地に旧駐独米軍の施設を改装した建物やモダンなビルが立ち並ぶ。ガラス張りの一棟で、3本線のジャージー姿の老若男女が汗を流していた。社員専用ジムだ。テニスやバスケ、サッカー、ボルダリング場から白砂を敷き詰めたビーチバレー場まである。まるで、スポーツ公園。
あ、そうか、商品開発のために作ったんですね? 案内してくれた男性社員は首を横に振る。「仕事の合間に社員にリフレッシュしてもらうためです」
仕事(ワーク)と私生活(ライフ)の線引きが難しいなら、いっそ分けるのはやめて「融合」(インテグレーション)してしまおう。それがアディダスの掲げる「ワーク・ライフ・インテグレーション」(WLI)という考え方。仕事と私生活の二つで均衡をとる「ワーク・ライフ・バランス」(WLB)をさらに発展させた考え方として、欧米などで広まりつつある。
アディダスがWLBからWLIにかじを切ったのは2010年。社員の生活スタイル調査をした結果、WLBでは社員全員にはとても対応できなくなっている実態が浮き彫りになったからだ。担当部長のカトリン・ヘンペル(42)は言う。「デジタル化が進み、働く環境は激変したけれど、むしろテクノロジーの進歩を前向きに捉えて、いつ働くか、いつを休憩やスポーツの時間にあてるのか、一人ひとりに自分で決めてもらうことにしたのです」
アディダス本社では、週40時間の枠内で上司や同僚の合意を得られれば社員が勤務時間を振り分けられる制度や、1カ月の就労時間のうち20%はどこで仕事をしてもいい制度を導入。社内に固定デスクを設けず、デザインに工夫を凝らした会議室や各種スポーツ施設を整備しているのも、社員それぞれのペースで休息をとり良い仕事をしてもらうためだという。
資料山積みの事務机が並ぶ雑然とした私の職場とは別世界。こんなところで働けば、もっと良い原稿が書けるのかな?
国外の支社にもWLIの試みは広がる。アディダス・ジャパンでも、週3回までの在宅勤務と午前5時~午後10時ならいつ勤務してもいいスーパーフレックス制など独自の対策をとっている。 しかし、だ。チームで仕事をしたり、休憩中に上司からメールで問い合わせがあったりしたら? どうしても日本の典型的な職場のイメージを捨てきれない私に、カトリンは諭すように言った。「その場にいなくても、SNSでコミュニケーションはとれるし、上司の問い合わせも不急なら返信しなければいい。それもすべて社員が自分で判断する問題です」
うーん。いつ休むのか自由に決めて良いけれど、コントロールはあくまで自分の責任で、ということか。
■仕事の中断はかえってストレス?
心理学的なアプローチから、WLIは「人間の本性」にかなっているかもしれないと説く人もいる。
今週片付けるつもりだった仕事が金曜日までに終えられず、週末に悶々と過ごしてしまう――。こんな経験をした人は少なくないだろう。「それはツァイガルニク効果という心理学の現象です」と、独ロストク大学准教授のオリバー・ヴァイゲルト(38)は説明する。
ツァイガルニク効果とは、「人は達成できなかった事柄や、中断している事柄に対して、より強い記憶や印象を持つ」という理論。1930年代に旧ソ連の心理学者ブルーマ・ツァイガルニクが提唱、実証した。労働組織心理学が専門のオリバーは、このツァイガルニク効果が現代の職場にも当てはまるか、実験を行った。様々な職種のドイツ人労働者83人に対して3カ月間、金曜の夜と月曜の朝に「金曜までに終えられなかった仕事を週末どうしたか」「週末にリラックスできたか」などをアンケートし、その結果を分析した。
オリバーの研究チームが2017年に発表した論文によると、仕事を残したままで週末を過ごした人より、無理しても仕事を片付けてしまった人の方が、「週末にストレスを感じない」という傾向が浮かび上がってきたという。
オリバーは言う。「人間は仕事を中途半端にしておくと、緊張感や不快感を覚えてしまう。それを和らげるには、無理しても仕事を終わらせるか、もっと気を散らせる別の方法で気晴らしをするしかない。休みだからと仕事をせず、ジレンマを抱えたまま週末をもんもんと過ごすのが精神衛生上、最も良くないのではないか。それは太古から人間に刻み込まれている性質なのかもしれません」
なるほど。大昔、狩猟生活を送っていた我々のご先祖様たちは食糧を確保しないうちは心配でおちおち休んでいられなかったに違いない。カレンダーに従って一律に休日をとる現代のライフスタイルは、人間が社会生活を営むようになってから編み出した手法とも言えそうだ。
とすれば、やはり自分で時間をコントロールするWLIは理にかなっているということかなあ。でも、現実の社会はそんなに単純ではない。
■バーンアウト患者の叫び
労働者の権利保護に手厚いドイツでは、企業での労働時間に法律で厳しい上限規制をかけている。本来は労働者を守る仕組みだが、裏を返せば、終業時間や休暇までにノルマをこなさなくてはいけない。仕方なく家に仕事を持ち帰る人も少なくない。そんな過度のストレスなどから仕事への意欲を失う「バーンアウト」(燃え尽き症候群)が増えており、独公的健康保険AOKが加入者1000人を調査したところ、17年で5.5%に上った。
「スマホやSNSの普及はバーンアウト増加に大いに影響を与えていると思う。『つながりっぱなし』は、常にアラームが鳴っているのと同じです」
ベルリンの精神科医、スヴェン・シュテフェス=ホレンダー(44)は、自分の患者の中でも在宅勤務の人にその傾向が強いと言う。
さらに、スヴェンはWLIに一定の理解を示しつつ、医学的な知見から警鐘を鳴らす。「疲労回復期間が定まっていないと、バイオリズムには良くない。自分でも気づかぬうちに、ずっと働き続けている状態になりかねない」
そして、職場の環境によっては、仕事と私生活をうまく「融合」できない人もいる。
東ベルリンのクリニックで治療を受けるバーンアウト患者、ターニャ・ライヒェル(50)は、区役所で労働契約の書類作成などを担当していた。午前9時から午後4時まで着席が必須。チアリーディングとホッケーに打ち込む娘2人の送迎のため、朝6時に早出して就業時間内に山積みの仕事を片付ける日々。会社勤めの友達は「家に持ち帰れば」と言うが、仕事は役所の専用パソコンでしかできないし、データを外に持ち出せない。
12年のある日、突然、腹部の激痛に襲われ、立っていられなくなった。急性の腸炎。医師からこのままでは腸が裂けると言われ、緊急手術を受けたが、復帰後も状況は変わらなかった。
「あんた、いったい何が言いたいの!」。ある日、職場のミーティングで訳もなく同僚を罵倒する自分に驚いた。仕事も家事も手に付かなくなり、今の病院を受診した時には、エレベーターに入るだけで激しい震えと動悸に襲われた。「不思議と休みたくなかった。体と現実の開きに気づけなかった」
バーンアウトは、外見は無傷に見えても中身はぼろぼろに焼けた家のようになるといわれる。まさに、その通りだった。ターニャは言う。「WLIのような働き方は素晴らしいと思う。でも、私の職場では無理でした」