いつの時代も、場所を問わず人は豊かさを求めて移動してきました。生まれるところは選べないが、どこで生きるかは選ぶことができる。よりよい政治、よりよい経済状態、より暮らしやすい自然条件を求めて人は動きます。今でも世界人権宣言は移動の自由をうたっています。
ところが近代国民国家が成立すると、国家は国民と外国人を区別し、国民の移動を制限するようになりました。国境を越える移動が特別なものになったのです。技術的に交通手段や交通インフラが発達し、人間が移動できる範囲は大きくなる一方で、国家は港や空港を整え、パスポート制度を導入した。指紋や写真といった新技術を個人の照合に利用できるようになり、国民の出入りの管理が容易になった。
我々の思考や国家の法的枠組みも、人間はどこかに生活の拠点があって定住している状態が正常だという前提に立っています。渡世人である「木枯らし紋次郎」をアウトローな存在として小説にしたのが近代です。
でも今、国民国家が相対化されるグローバル時代になって人の移動はますます制限できなくなっている。商品や資本が移動すれば必ず人の移動を伴うのに、いまだに多くの人は過去の思考のフレームにとらわれています。いま国際社会では難民は主に政治的な理由で逃げてきた人であり、それ以外を移民と定義しますが、厳密な区別は難しいものです。
とはいえ、こうした見方も難民が押し寄せている現場では全然役に立たないのも事実です。受け入れには金もかかるし、人手もいる。無制限に受け入れられるわけではありません。欧州の国々が難民に対して消極的な路線に傾いている。人道主義という建前を維持できないほど統治面での問題が各国で深刻になっています。 ただ、先進国はどこも人口減や人手不足という問題を抱えている。いまの状況がこのまま続くとも限らないのではないでしょうか。
(聞き手・田玉恵美、左古将規)
いよたに・としお 1947年生まれ。一橋大名誉教授。専門は移民研究、グローバリゼーション研究。著書に『移動から場所を問う』など。