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「みんなの経済」の未来は? 仏社会経済学者ジャン=ルイ・ラヴィルに聞く③

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T)連帯経済の柱のひとつである「回復工場」の中には、株式会社との競争に負けてラインが止まったケースも=江渕崇撮影

――市場と国家の関係についての議論をもう少しさせてください。ラテンアメリカや南欧は市場も国家も脆弱なので、社会やコミュニティーに基づく経済が根付いたということだと思います。一方で、北欧諸国のように強い国家と強い市場の組み合わせでグローバル化に立ち向かう、という方向性もあるのではないですか。たとえば、今議論が盛んになっているベーシックインカムは強い市場と強い国家を組み合わせた極端な例だと思いますが、どう評価しますか。

ベーシックインカムについて考えるのは大変興味深いことです。しかしそれはすべての問題を解決するような奇跡にはなり得ません。たしかに私たちは所得について(役所の裁量にゆだねられたり、属性によって区別したりしない)普遍主義的なアプローチをとる必要があるのは事実です。いまは、特定のグループのみに恩恵が行くシステムがあまりに多く併存しています。これはどの国でも言える問題です。しかし、私は今の世界の問題が、所得に関係することだけだとは思いません。問題は、社会的なつながりや、コミュニティーへの帰属でもあるのです。だから私は連帯経済が少なくとも補完的な解決策になると言っているのです。なぜなら連帯経済は友人たちから孤立して社会的なつながりをなくした人々に所得をもたらすだけでなく、経済活動を通して社会に統合される道筋も提供しているからです。

――連帯経済が所得に限らない「安全網」として役割を果たしているのはよく分かりました。ただ、私の中心的な問題意識は、連帯経済が「グローバル化の敗者」を救う安全網にとどまるのか、あるいは、グローバル資本主義のオルタナティブ(対案)になりうるのか、ということです。

それがまさに中心的な問題であることに同意します。私は、連帯経済を、競争についていけず国際市場のなかで戦っていけない敗者のためだけの「サブ経済」におとしめてはいけないと思います。現実の経済のリズムについていけない人たちによる、単に競争力のない経済になってしまうリスクがあるのです。私たちは、このリスクに意識的でなければなりません。実際に公共政策が連帯経済を取り入れはじめたとはいっても、なかには「安全網」として連帯経済を使うというロジックにとらわれたものがあるからです。

一方で、連帯経済はオルタナティブになる、とも簡単には言えません。というのも、いったいなんのオルタナティブなのか?あるいは、どの程度?と突き詰めて考えないといけないからです。ただ、経済に対する新しいアプローチ、つまりもっと多元的に経済をとらえる、という意味で連帯経済は決定的な要素だと思います。私たちは市場経済を抑圧しようと考えているわけではありません。また、国家による保護を軽視しているわけでもありません。私たちは、経済に対してもっと多元的なアプローチが必要ではないかと言っているのです。

フランスの社会経済学者、ジャン=ルイ・ラヴィル=江渕崇撮影

その意味で、ボリビアやエクアドルの憲法で認められた「ブエン・ビビール」(良き暮らし、という意味のスペイン語)という考え方が大変重要だと思います。できるだけ大勢の人のよりより暮らしを実現するためには、これまでのように経済成長を最大化するという方向性ではなくて、多元的な経済のありようをもっと認めていくことが必要なのです。確かに市場経済があり、公共経済がある。それだけでなく、第三の要素である連帯経済もあるのです。多元的な経済という枠組みで考えると、連帯経済は、市場や国家に従属する単なる「サブ経済」や「安全網」ではなくて、それらと並列した当たり前の、正統性のある経済なのです。

――20世紀の経済体制には、たとえばマルクスやケインズのような「大理論」が存在しました。一方で、連帯経済は、まず実践を積み重ねる中から徐々に理論が生まれていくものなのでしょうか。

連帯経済にも「ルーツ」となる理論はあります。私に言わせれば、それは(『大転換』などを著したオーストリア出身の経済人類学者)カール・ポランニーです。主流派の経済学に対して全く別の経済像を示したのが彼だからです。市場という存在は、必ずしも自然ではないと論じ、そしてまた経済そのものも自然ではないとし、経済は制度として形成されていくプロセスなのだと考えました。ポランニーの枠組みを改良していくことで、私たちは新しい経済の姿を構想することができるのです。マルクスとケインズの世紀を経て、今私たちはポランニーの世紀へと向かっているのです。

――ここしばらく、グローバル化をどうとらえればいいのかの取材を続けてきたなかで、確かにポランニーの名前を聞くことが増えました。死去から半世紀を経て、いま再びポランニーが見直されているのはなぜなのでしょうか。

彼はかなり長い間、ほとんど無名でした。とても異端の思想家だったのです。それがこの10年ほどでしょうか、さかんに引用されるようになりました。ポランニーの思想はいままさに重要性を増しているからです。彼の思想の枠組みは、1930年代を分析するなかで生み出されたものです。彼は、市場経済が行きすぎると、それは市場経済ですらなくなり、「市場社会」になるとと説きました。それは社会的なつながりの危機をもたらします。たしかに私たちは市場経済を必要としていますが、また別の形の経済も必要になる。このことを、ポランニーは強く主張したのです。

もし私たちが権威主義やポピュリズムなどの後ろ向きな解決策をとりたくないのであれば、もっと経済を多元的にしていく余地をつくらないといけません。ポランニーの基本的なメッセージは、私たちがもし民主主義を維持したいと思うのならば、経済を民主化しないといけない、ということです。私は、彼のこのメッセージが今の世界にとても、とても強く響いているのだと思います。

――話を元に戻すようですが、いまおっしゃった「経済の民主化」というのは、多くの研究者にとっては、自由な市場経済のことを意味するのではないですか。

たしかにそうです。(オーストリア出身の経済学者)ハイエクなど新自由主義の論者たちによる枠組みに基づくと、そうなってしまうのです。ハイエクは、市場こそが民主主義を実現する手段だと本当に考えていました。あるいは、民主主義よりも市場が大事だとすら考えていました。私は、こうした極めて個人主義的な市場と民主主義の定義に対し、真っ向から戦っていかなければならないと思います。こうした個人主義を超え、すべての人間は弱いけれども大事な存在であるということを示し、真に理性的な分析に取り組まなければなりません。もし自己実現したいと思ったからといって、ハイエクが言うように厳しい競争を勝たなければならないわけではありません。連帯の中で自己実現することだって可能なのです。それは問題が全くないということを意味しませんし、一切の葛藤がないことも意味しません。ただ、あなたがもっと先に進みたければ、ほかの仲間を必要とするはずです。この点がポランニーとハイエクの根本的な違いなのです。この二人では、人類学的な見方が全く正反対なのです。

――現状を見る限り、ほとんどの連帯経済の試みは小さくて脆弱です。そのせいか、連帯経済など取るに足らない動きだとの評価もあります。どう反論しますか。

なにか新しいものが世界に立ち現れようとしているとき、それが不十分だといって批判するのはおかしい。悲観的でネガティブな解釈がありうることは分かっています。しかし、全く何もないじゃないかと文句を言うことだけでなく、なにがそんなに新しい考え方なのだろうかと目をこらし、それを突き止めることもできるはずです。実際に公共政策に反映されていることからも、この10年でだいぶ受け止めが変わってきました。

フランスの高級スニーカーメーカー「Veja」の経営者(右)が生産者協会に加盟する綿農家に買い取り価格を説明した=江渕崇撮影

ブラジルでの数々の実践が示しているのは、連帯経済がすでに風景の一部だということです。もちろんもっと認知され、理解される必要はあります。しかし、それはそこに実在しているのです。ユートピアや理論だけが孤立しているわけではありません。大事なのは、私たちが全く別の理想社会に向かって戦っているわけではなくて、すでに存在しているものを評価しようとしている、ということなのです。これは大変現実的なアプローチなのです。

――ラテンの国々の経験の、日本への教訓はなんでしょうか。

私が日本について語るのは難しいですが、一つ言えるのは、フランスの経験が参考になるということです。フランスではたくさんの実践がありましたが、それぞれがバラバラで、つながりに欠けていました。しかし、それを理論的なレベルで「連帯経済」と名付けたことによって、個々の試みを一つの言葉でくくり直すことができました。これは日本でも同じだと思います。日本社会でも、私たちの言う連帯経済にあたる試みはすでにあちこちで実践されているはずですが、それが理論的に統一されているわけではないようです。いまこそ、「ブエン・ビビール」の考え方を、日本に導入するときではないですか?(笑)

Jean Louis Laville 1954年生まれ。フランス国立工芸学院教授。世界の連帯経済研究の第一人者。