「市民ラッパ部隊」の結成
ソウルで広報コンサルタンティング会社を経営するチョン・サンフン(50)は昨年10月以降、今年3月の大統領罷免に至るまで19回続いた毎週土曜日のデモに欠かさず参加を続けた。「セウォル号の事故でコントロールタワーの役割を果たせず、経済も一向に良くならない。この政府には国民を守る能力がないと思っていたところに、チェ・スンシルの事件が明らかになった。もはや大統領を辞めさせるしかないと思った」
実際にデモに参加してみると、盛り上がりは想像を超えていたという。「それまでデモと言えば政党や労働組合が中心だったが、今回は違った。自分のようなごく普通の社会人が大勢参加した。誰もが政権に対する怒りを感じていた。これは市民革命だ、と思った」
デモに数回、参加を続けるうちに、彼は考えた。デモの間、何時間も声を張り上げ続けたら、のどがつぶれてしまう。サッカーの南アフリカ・ワールドカップで流行した「ブブゼラ」というラッパを思い出した。ラッパなら、のどは疲れずデモを盛り上げられる。毎週続いたデモのたびに一つ1000ウォン(約100円)のラッパを200個準備。周囲の参加者に配った。6回目のデモから「市民ラッパ部隊」を名乗り始めた。
「政党や労働組合だけでは、デモは盛り上がらない。ごく普通の社会人である自分が、無所属の市民に役割を提供したいと考えた」とチョンは言う。デモの会場には彼の「ラッパ部隊」以外にも、太鼓をたたいて参加する人たちや、キムパプ(韓国風のり巻き)を無料で配る人たちも現れた。
「私は市民の力を信じていた。30年前の経験があるからです」とチョンは言う。1987年、韓国の民主化を実現した原動力もデモだった。70年代から80年代にかけて、軍事政権はデモを厳しく弾圧した。87年1月にソウル大学の男子学生が拷問の末に死亡すると、その年の6月にデモは最高潮を迎えた。政府与党は大統領の直接選挙制導入を宣言し、民主化が実現した。ソウル大学の3年だったチョンも、デモの現場にいた。「当時のデモは学生が中心だったが、スーツを着た社会人も、周囲の食堂や店で働く人たちも、拍手で応援してくれた。あのときも市民の力で民主化を勝ち取った」と振り返る。
「87年民主化」の記憶
昨年秋からのデモの半分以上に参加したというソウル大学教授のチェ・ガプス(63)も、30年前の民主化運動を思い出していた。自らもデモに参加して当局に拘束された。西洋史を専攻し、世界の革命の歴史を研究するきっかけになった。
今回の韓国のデモは「世界史上最大規模の抵抗運動と言ってもいいのではないか」とチェはみる。1979年のイラン革命でも200万人が参加したと言われるが、今回の韓国のデモは最も参加者が多かった昨年12月のデモで200万人以上が参加したと言われるだけでなく、数十万~100万人規模のデモが4カ月以上続いたからだ。
「これだけデモが盛り上がった背景には、首都圏に人口が集まっていることなど、いくつかの要因がある。でも最大の原因は、人びとの間に不満がたまっていたことだ。87年に政治は民主化したが、経済は民主化されなかった。大統領は直接選挙で選べるようになったが、選ばれた大統領は財閥ばかりを支援し、一般の人たちの生活は良くならなかった」
引き継がれる抵抗文化
韓国の民主化運動を研究している米国ハーバード大学社会学部の助教授、ポール・チャン(42)は昨年12月、韓国を訪れてデモを間近に見た。「かつての民主化デモと手法が似ている」と感じた。
軍事政権時代の熾烈な弾圧が韓国のデモを育てた、とチャンはみる。「1970年代、軍事政権がデモを厳しく取り締まることで、デモの件数は減った。一方で弾圧に反発する人たちの裾野は広がり、デモの参加者は多様化した。当初デモの中心だった学生と知識人以外に、宗教家やジャーナリスト、弁護士らが新たに加わった。弾圧をかわすために戦術も多様化し、巧妙になった」と言う。広場に座り込みをする現在のデモの原型も、70年代の民主化デモにある、と彼はみる。
「韓国では1960年に学生デモで当時の大統領、李承晩が辞任に追い込まれ、87年には民主化が実現した。そして今回、若い世代がデモで政治を変えることを初めて経験した。抵抗文化は引き継がれる。今後も何かきっかけがあれば、人びとはまた路上へ出るだろう。平和的な方法で怒りを表現することは、民主主義にとってプラスになるはずだ」とチャンは言う。(文中敬称略)