雲の合間から群青色の海が見える。5月末、記者(梶原)が乗った朝日新聞社の小型ジェット機「あすか」は那覇空港を離陸し、日本の最南端、沖ノ鳥島へ向かっていた。島影はまったく見えず、海が果てしなく続くように思えた。2時間ほどすると、突然、海の色が透き通ったエメラルドグリーンに変わった。
白い波頭がくっきりと輪郭を形づくっている。沖ノ鳥島だ。南北に約1.7km、東西に約4.5km、周囲は約11kmの長円形で、透き通った水面の下には島の大部分を占めるサンゴ礁がはっきりと見えた。波を防ぐ円形のコンクリートの建造物の中に、小さな島がある。東小島(ひがしこじま)と北小島(きたこじま)だ。この二つは、満潮時でも沈まないという、国連海洋法条約で定める「島」の要件を満たしている。
ここは北緯20度25分。ハワイのホノルルやベトナムのハノイとほぼ同じ緯度だ。東京都でありながら熱帯気候で、台風が発生する海域だ。かつては六つの島が海面上に見えたそうだが、荒波に削られたのか、姿を消していった。これ以上、島が浸食されて水没しないよう、政府は1987年から鉄製の消波ブロックや護岸コンクリートを設けて島を守っている。2011年からは750億円かけて港を建設中で、16年度末までに長さ160mの岸壁ができる予定だ。完成すれば、全長130mの大型海底調査船も停泊できるようになる。
高度約150mからは、島の周辺に大小9隻の船を確認することができた。クレーンを積んだ大型の作業船には大手建設会社のロゴマークがみえた。望遠レンズを通して、灰色や青色の作業服にヘルメットをかぶった十数人の作業員の姿も確認できた。我々の様子を双眼鏡でみている人もいる。もう一つの白い大型船は、約100人が寝泊まりしているという船だろう。小さな船は漁船だろうか。ゴムボートに乗って麦わら帽子をかぶった釣りをしているような人も見えた。
東京から1700km離れたこの絶海の孤島に、人がいるのにはわけがある。
沖ノ鳥島を中心に円を描いた排他的経済水域(EEZ)は約40万k㎡。日本の国土面積の約38万k㎡より広い。豊富な漁場であり、近年は近くの海底でコバルトやニッケルなどのレアメタルの存在が確認されている。
しかし、中国や韓国は「沖ノ鳥島は島ではなく岩であり、EEZや大陸棚の基点とならない」と主張してきた。国連海洋法条約には「人間の居住や独自の経済的生活を維持できない岩は、EEZや大陸棚を持たない」という条項があるからだ。
「経済的生活」という言葉の定義は必ずしも明確ではないが、日本は実績作りを進めてきた。港をつくるのも、建設労働そのものが「経済的生活」を維持していることになると考えるからだ。国連の大陸棚限界委員会は昨年4月、沖ノ鳥島は島だとお墨付きを与える内容の勧告を出した。
この海域は軍事戦略上も重要な意味を持つ。中国は日本の南側の西太平洋一帯に「第1列島線」「第2列島線」という二つのラインを想定し、その内側の制海権を握ろうとする長期戦略をたてている。日本列島からサイパン島、グアム島をつないでインドネシアに至る「第2列島線」の上にあるのが沖ノ鳥島を含む小笠原諸島だ。台湾有事の際に、中国海軍はこの海域でのアメリカ海軍の行動を阻止することを目指す。
複数の日本政府関係者は「沖ノ鳥島の周辺も緊迫している状態だ」と話す。
04年には、中国の海洋調査船の活動が頻繁に確認されるようになった。ちょうどそのころ、小笠原島漁業協同組合の組合長だった菊池滋夫(85)は、当時の東京都知事、石原慎太郎から電話で呼び出された。石原は「沖ノ鳥島で漁をやってくれないか。魚は一匹も釣れなくていい。経済活動をしている実績をつくりたい」と切り出したという。菊池は「いくらでも協力する」と応じた。
石原は04年12月の会見で「沖ノ鳥島周辺は日本のEEZだと実証するため、周辺海域で漁業をする」と述べ、都は翌年度予算に5億円を計上。魚礁を沈めるなど漁場を整備し、漁で漁師が赤字になったら穴埋めすると決めた。
小笠原の父島から沖ノ鳥島まで約900km。菊池の19tの船で片道3日かかる。天候が急変しても避難する場所はない。「海を守らなくては、という気持ちはあった。でも、本当はすごく怖かった。しけたら終わりだよ」と菊池は明かす。
ここでの漁は若い漁師たちが引き継ぎながら、いまも続いている。(梶原みずほ、宮地ゆう、文中敬称略)
■世界とつながってきた歴史の面影、小笠原
日本は古くから海で世界とつながってきた。鎖国していた江戸時代もオランダや中国との貿易は続いたし、交易目的で日本に渡ろうとしたり、離島を探検したりした外国人もいた。ジョン万次郎のように、漂流の末、日本から外国へ渡った人もいる。
そんな時代の面影を色濃く残す島がある。東京から約1000km南の、太平洋に浮かぶ小笠原諸島だ。
父島に暮らすイーデス・ワシントン(91)は、1830年、無人島だった父島に最初に住み着いた人たちの一人、ナサニエル・セーボレーの子孫だ。ナサニエルを初代とすると、4代目にあたる。
ナサニエルは米国ボストン北部の町で生まれた船乗りだった。ハワイで小笠原の話を聞き、移り住んで捕鯨船と交易しようと考えた。小笠原の研究者らによれば、その後もドイツ、イギリス、タヒチ、西アフリカなどから人が移り住んだという。1862年、徳川幕府の外国奉行らが島を訪れて日本の領土だと宣言し、島民はのちに日本人になった。
いまも島にはイーデスのような子孫が暮らし、「欧米系島民」と呼ばれる。結婚して姓が変わった人を除いても、100人ほどいるといわれる。
イーデスの母親は神奈川県出身のツル、父親はナサニエルの孫のチャーレス。「父も日本人として育っていたし、自分が日本人以外だと思ったことは一度もない」と、イーデスは振り返る。家での会話も日本語だった。
戦争の時代が近づき、欧米系の島民は戸籍をカタカナの名前から漢字の名前に変えさせられた。イーデス・ワシントンは「木村京子」になった。その直後、母島や硫黄島も含めて約7000人の島民は、本土へ強制的に疎開させられた。
終戦の翌年、米軍の統治下に入った父島に帰島が許されたのは、イーデスら欧米系の約130人だけだった。小笠原が日本に返還され、すべての島民が帰れるようになったのは1968年のことだ。
第2次大戦中には、小笠原はグアムやミクロネシアに向かう日本の船の補給地になった。戦後は米軍の基地となり、父島には1965年まで核兵器が貯蔵されていたことが後にわかった。
「小笠原を中心にすると、違った歴史が見えてくる」。ナサニエルの5代目にあたるセーボレー・孝(55)はそう話す。
10年ほど前、ナサニエルが生まれた米国の町で一族の集まりを開いた。初めて会う親類80人くらいが集まった。「人が自由に海を行き来していた時代に、先祖はここから来たのかと、感慨深かった」
人口が増える離島
現在の島の暮らしは定期船「おがさわら丸」の出入港とともに回っている。数日に1度、片道25時間半かけて東京とを往復する船だ。この船で、日用品が島に運ばれ、島で取った魚を東京に運ぶ。
出港の前日の朝、漁港に行くと、漁に出ていた船が続々と帰ってきた。
硫黄島の近海から戻った横山祥士朗(58)はこの日、カンパチなど約700kgの水揚げがあった。「漁業権が世襲される漁協も多いが、ここでは親方について修業すれば独立できる。自分の船を持つことを目標に全国から若い人が集まってくる」と話す。小笠原島漁協の組合員45人のうち、島の出身は数人に過ぎない。
人口は父島と母島を合わせて約2500人。20年前より約500人増えた。過疎に悩む離島が多い中で、珍しい例だ。(宮地ゆう、文中敬称略)