五輪も舞台、「軍事化」する都市
「エキサイティングでもあり、退屈な仕事でもありました」。きれいな白髪に柔らかな物腰。スコットランドヤード(ロンドン警視庁)で30年にわたりテロリストや組織犯罪を追い続けた人物とは思えない表情で、イアン・フロイド(56)は2012年のロンドン五輪を振り返った。
「監視のプロ」が現役最後の5年間に担当したのが、五輪の警備態勢づくりだった。警察や軍、情報局保安部(MI5)や対外情報部(MI6)などからもたらされる情報の集約や警備計画のテスト、五輪の組織委員会に潜り込もうとするテロリストなどのあぶり出しに携わったという。フロイドは慎重に言葉を選びながら、舞台裏を明らかにしてくれた。
立ちはだかったのは都市化だったという。メイン競技場の建設は、貧困層の多い地区の再開発に合わせて計画された。次々に建つ高層ビルや商業施設が条件を複雑にした。2年間にわたり、会場周辺にどんな人物が住み、どんな商売をしているのか戸別訪問を中心に徹底的に調べた。誰がいなくなったのか、誰が新しく入ってきたのか、どこが空き部屋か。攻撃可能な場所はどこか。特に開会直前の3カ月以内の入居者は「脅威」とみなし、誰が家賃や公共料金を支払っているのかまで裏を取った。
大会前には、会場の弱点や銃器などで攻撃ができそうな場所に監視部隊や機材を事前に配置し、誰が下見にきているのかを押さえる。大会期間中に要人が来場すると、ほとんどの観客は同じ方向を見る。別の方向を見たり、周りを見渡したりする人物は怪しい。こうして潜在的な「容疑者」を特定し、行動追跡に入るという。
フロイドは「人々を殺そうとしているテロリストを捜すには、より多くの手段が許されるのでは。ましてや、五輪ブランドを守るためならね」と話す。
五輪は軍事産業の見本市
五輪とテロの関係は深い。1972年のミュンヘン大会では、パレスチナ・ゲリラが選手村を襲い2人を射殺、9人の人質も犠牲に。87年に北朝鮮の工作員が大韓航空機を爆破した事件も、翌年のソウル大会の妨害が目的とされる。96年のアトランタ大会では開催中に会場近くの公園でコンサート会場が爆破された。
大会を重ねるごとに導入されてきたのが、金属探知機やX線スキャナー、所有者を追跡できる電子タグ入りチケット、監視カメラ網といった、軍事施設や空港で使われてきた先端技術だ。警備費用もうなぎ登りで、シドニー大会で1億8000万ドル、アテネ15億ドル、北京では60億ドルに上ったという推計もある。ロンドンは既存の監視システムがかなり整っていたことなどから、約6億ポンド(当時のレートで約9億ドル)とみられる。
今夏のリオデジャネイロ五輪では、軍の3万8000人を含む8万5000人が警備に動員される。大会公式サイトで政府の治安責任者は「警察や情報機関が情報や訓練を共有するためのテロ対策センターを立ち上げた」と語っている。
「五輪やサミットは軍事産業や警備会社にとって格好の見本市になっている。一方、当局は高価な監視システムを導入する機会として利用する。そのインフラは大会後も残ります」。英ニューカッスル大学教授のステファン・グラハムは、こうした現象を都市の「軍事化」と呼ぶ。
ビッグブラザーよりもっと巧妙
正規軍同士の大規模戦闘が前提だった冷戦時代、米国をはじめ西側諸国の軍事作戦は都市を避け、広い「戦場」を想定していた。ところが冷戦後、市街地で一般住民に溶け込むテロリストや民兵が主な敵になると、「戦闘空間」としての都市をどうコントロールするかが重視されるようになったという。2001年の米同時多発テロ「9・11」以降に本格化した「対テロ戦争」が長引くにつれ、この傾向に拍車がかかっている。
進められているのが、「先制的監視」と呼ばれる手法だ。インターネットや人工衛星、GPS(全地球測位システム)、遠隔操作、レーダー、無人機、生体認証、大量のデータから傾向を見つけ出す「データマイニング」などを利用して、市民の日常生活から収集したデジタル情報によるデータベースが基盤となる。多くが20世紀後半から多額の軍事予算を投じて研究開発された技術だ。
英国の作家ジョージ・オーウェルが小説『1984年』で描いた監視社会を思い起こさせるが、グラハムはこう指摘する。「ビッグブラザーが支配する権威主義より、もっと巧妙。私たちはすでに生活の手段として、デジタル機器にどっぷりつかっている。その便利さは、常に監視されてプライバシーが失われる世界と表裏一体なのです」
警備はもう始まっている/今井勝典(東京五輪警備局長)
2020年に行われる東京五輪。招致段階では警察官や民間警備員などの警備要員を5万850人、予算を209億円と見積もったが、大きく膨らむ可能性が指摘されている。警察庁出身で、警視庁警備1課長などを経て、東京五輪・パラリンピック組織委員会警備局長を務める今井勝典(50)に見通しを聞いた。
02年の米国ソルトレーク冬季五輪では開幕5カ月前に9.11があり、警備計画を大幅に見直しました。今から4年前、「イスラム国」はありませんでした。4年後の世界情勢を今どうこう言えません。実際のセキュリティー要員や予算がどうなるか、決まるのはまだ先です。やるべき準備をしつつ、情勢の変化に柔軟に対応する必要があります。
今年2月の東京マラソンでは、不審なドローンをドローンでつかまえる部隊を警視庁が配備しました。20年の東京ではドローンの活用が今よりも広がって、警備環境が一変しているかもしれません。
一方で、警備する側の技術も進歩するでしょう。昔の防犯カメラは少し離れると人影がぼやっと見えるだけでしたが、今では畳くらいの大きさのモニターに映像を映しても服装や顔がきれいに見えます。個人の認証技術も進歩しています。利用可能な技術をしっかり研究して、使えるものは使いたいと思います。
04年にチェチェン共和国であった対ナチスドイツ戦勝記念式典で、大統領の座る貴賓席近くで爆発があり、大統領が死亡しました。会場のスタジアムの改修工事段階で爆弾が埋め込まれていたのです。競技場を造る段階から、すでに警備は始まっています。
12年のロンドン五輪は、市東部の五輪村近辺に会場が集中していました。リオ五輪も主な会場が4カ所にまとまっています。それに比べて東京は、国立競技場が神宮の森にあり、日本武道館は九段下にある。五輪会場が街の中に溶け込んでいます。これは大きな挑戦です。
安全か自由か、凍えるパリ
深夜0時半、フランス・パリ郊外の小さな村にある一戸建ての玄関ドアを激しくたたく音がした。「強盗?」とおびえる妻(43)をなだめながら、パンツ1枚の下着姿のままムスタファ(45)が玄関のドアを開けると、銃で武装した憲兵隊約20人がなだれ込んできた。
昨年11月、カフェやコンサート会場で市民ら130人が殺害されたパリ同時多発テロから、2日後のことだった。
「何かの間違いじゃないか」という訴えは聞き入れられず、ムスタファは後ろ手に手錠をかけられて1階リビングに座らされた。妻は1階のキッチンに閉じ込められた。憲兵隊が2階へ駆け上がる。16歳、12歳、5歳の娘3人の悲鳴が聞こえた。ベッドから足首をつかまれて無理やり引きずり出されたという。
モロッコからの移民2世としてパリ郊外で生まれた。フランス陸軍の兵士としてベトナムで戦った父親の影響で、射撃が趣味だった。近所の射撃クラブの会員で、国の許可を得て入手した殺傷能力の低い22口径の弾丸500発を自宅に持っていた。
その日以降、彼は住んでいる村から外に出ることを禁じられ、毎日4回、憲兵隊の詰め所に出頭するよう命じられた。疑いが晴れて「軟禁」が解除されたのは3カ月後、今年2月のことだ。
根も葉もない「密告」
「ムスタファは『テロはレジスタンスだ』と賛美していた」。射撃クラブの別の会員による「密告」が捜索につながったと、後で聞いた。「自分がそんなことを言うはずがない。テロは殺人だ」。ムスタファは記者の私にそう強調した。妻の知人も11月のテロで亡くなったという。憲兵隊の捜索を受けたのは、妻と一緒にテロ現場で献花した日の夜だった。
テロ直後、政府は「非常事態」を発令。大統領のオランドは上下両院議員を前に「フランスは戦争状態にある」と宣言した。非常事態のもとでは、警察や憲兵隊の権限が強まる。裁判所から令状をもらわなくても家宅捜索でき、「怪しい人物」に居住地から出ないよう命じることができる。
法律上12日間しか認められなかった「非常事態」は、国民議会が法律を改正して今年2月まで3カ月延長された。
仏ルモンド紙によると、3カ月間で約400人が居住地から出ないよう命じられ、3397カ所が家宅捜索された。そのうち実際にテロに関係するとして起訴されたのは5件だけだったという。
NGO「フランス人権連盟」は、非常事態は違憲だとして、停止を求め提訴した。憲法裁判所は今年2月、令状なしの家宅捜索でパソコンやスマホなどのデータを押収することを除いて、合憲だと判断した。
「非常事態は続けてほしい」
人権連盟の弁護士、パトリス・スピノジは「自由と平等はフランスの国是なのに、政府も裁判所も安全を最優先に考えている。テロとの戦いに『非常事態』が必要なら、どの政治家も止められない。万が一テロが起きたとき責任を問われるからだ。このままでは非常事態が永遠に続くことになる」と嘆く。
しかし、フランス国民の多くは非常事態を支持している。今年1月に世論調査会社が国民955人を対象に調べたところ、79%が延長に賛成した。
3月半ば、テロ現場に近いパリ東部のレピュブリック広場で行き交う人たちに尋ねた。近くに住むというフレデリック・シェーン(34)は「政府にはテロを防ぐためにできることをすべてしてほしい」と語った。アフリカ系の女性ソンドラ・ラビ(36)も「証拠もなく『疑わしい』というだけで捜査すれば、間違いも起こるかもしれない。でもやっぱり非常事態は続けてほしい。またテロが起こるのではないかと不安だ」と語った。
非常事態は今年2月に延長期限を迎えたが、政府は「テロの脅威は依然として強い」として5月までの再延長を提案。国民議会は与党の中道左派・社会党の一部が造反したが、賛成212票、反対31票の大差で可決した。
治安守る文化生まれた/アンヌ・イダルゴ(パリ市長)
パリ市長のアンヌ・イダルゴ(56)はスペイン生まれ。子ども時代に移民し、フランス国籍を取得した。政権与党の社会党に所属。2014年に市長に初当選した。テロ後のパリをどうみるのか。
4000人を超える兵士がパトロールして街を守っています。警官の数も増え、パリの風景の一部になりました。治安対策は強化され、私自身も外出を楽しみ、スーパーで買い物をし、カフェのテラスで家族と食事を楽しんでいます。
劇場の入り口で、市民が進んでカバンを開き、上着を広げてみせている場面に出合いました。もともとは個人の自由を大事にし、(荷物チェックなどには)反発するのがパリジャンでしたが、自分たちの手で治安を守り、テロを防ごうという文化が生まれているのです。
私は自由と民主主義を、とても大事に考えています。捜査当局も同じです。一般市民の自由が危機にさらされるような事態にはなっていません。令状なしでの家宅捜索もできるようになりましたが、常に司法がコントロールしています。
(非常事態の延長は)国際的には懸念されかねませんが、日々の暮らしが変わったり、夜間の外出禁止令が出されたりしたわけではありません。ただ、テロの脅威から市民を守るための治安対策は必要なのです。
変わる戦争のかたち
2度の世界大戦、朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争といった20世紀の戦争は、国と国、国と反政府組織との間で大勢の兵士が激突する戦争だった。
そんな戦争の姿が、21世紀に入って変わりつつある。9・11後アフガニスタンやイラクには地上軍が送り込まれたが、かつてより少なくなった。兵士の命が失われるおそれが高く、コストもかさむ地上軍より、小型無人飛行機(ドローン)や精密誘導ミサイルで離れた場所から攻撃することを政治家が選んだからだ。
それでも民間人の巻き添えは避けられず、現地の生活基盤は破壊される。米ブラウン大学によると、イラクやアフガン、パキスタンでは少なくとも21万人前後の民間人にも犠牲者が出た。
これに対しテロリストは都市に入り込み、市民を狙うようになった。米国などが掲げる「対テロ戦争」の戦場が、人々の暮らしのすぐ隣に広がってきた。テロが犯罪から「戦争」とみなされ始め、警察が軍隊なみの重装備に身を固める姿が見られる。ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は「私たちは断片的に『第3次世界大戦』のなかにある」と言い表している。
総力戦から「対テロ戦争」へとかたちが変わり、ハイテク兵器の多用もあって、戦争のコストは下がっているようにみえる。だが、テロ後のパリでの人権状況など社会への影響や、米国における帰還兵の後遺症と財政負担の問題など、お金にとどまらない様々なコストを私たちに強いている。
この「戦争」には、かつての国同士の戦争のような宣戦布告も終戦協定もない。始まりも、終わりもない。だからこそ不安が膨らみ、社会にも変化をもたらしている。
(其山史晃、左古将規、神谷毅)