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【堤大介】身一つで渡米。大好きな絵をひたすら描いた。人々の心照らす暖かな「光」。

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:

6月の日曜夕方、東京・表参道ヒルズの地下に続く階段で若者たちが列をなした。堤大介(41)が最新作の短編アニメ『ムーム』をひっさげ帰国、アジアの短編映画を集めた映画祭に登壇したのだ。若い女性が「(堤のスタジオ)トンコハウスで働くにはどうしたらいいですか」と尋ねると、堤は「ピクサーじゃなくトンコハウスなのがうれしいですね」と笑顔で返した。

2年前、堤は名門ピクサー・アニメーション・スタジオを去り、日系4世の同僚ロバート・コンドウ(36)と独立した。

コンピューターグラフィックス(CG)全盛の米国にあって、堤が得意としてきたのはぬくもりに満ちた手描きの光だ。その画風が評価され、ピクサーで大ヒット作『トイ・ストーリー3』などに携わる。監督第1作の『ダム・キーパー』はアカデミー短編アニメ賞にノミネートされた。

順風満帆に見える堤だが、紡ぎ出すのは「報われないヒーロー」の物語だ。『ダム・キーパー』の主人公ブタくんは街を公害から守る仕事を亡き父から人知れず受け継ぐ一方、学校でいじめられる。

「もともとの自分は内向的。性格的にはブタくんにすごく近いですね」

少年時代は野球に熱中。18歳で渡米するまで、絵の勉強などしたこともなかった。5歳で両親が離婚。ジャーナリストの父、故ばばこういちの記憶はあまりない。母は元文化放送アナウンサーで詩人の堤江実(76)。当時は紙製品輸入販売の会社を営みながら、後にジャーナリストとなる長女・未果と彼を育てた。

18歳で「日本を出たら?」

サイン会などでは参加者一人ひとりと丁寧に会話する。「どんなに列が長くても、彼は熱心に時間をかける」とコンドウは言う photo:Semba Satoru

江実は多忙で夜遅くなることも多かった。「海外出張の時、留守を預けたお手伝いさんに2人がいじめられたことがあったらしいんです。彼らは私に気をつかって何も言わなかった」。息子の堤にはけがが絶えなかった。「今思えば、精神的に満たされず、注意をひきたかったんじゃないか」と江実は言う。

堤いわく「究極の放任主義」の母からは、18歳で家を出るよう促された。江実は言う。「日本を出たら? とは言ったかな。個性ある大人たちが住空間を共にするのは無理がある、自分の好きな空間に住むべきだと思ったんです」 英語をほとんど話せないままニューヨークへ。コミュニティーカレッジで英語ができなくてもとれる絵の授業に通い、高齢の同級生たちから「才能あるねぇ」と口々にほめられた。「それで調子に乗ったんです」。絵の授業を増やすため美術部長に立候補し、学校側と掛け合った。行動力が認められ、地元の人向けの奨学金を外国人ながら得ることができた。

だが、編入した美大で現実にぶつかる。幼い時から絵の英才教育を受けてきた同級生も多く、「僕が一番下手だった」。高名な画家のデッサンの授業では「きみ才能ないから、次から来ないでくれ」と何度も言われるが、めげずに通い続けた。重い油絵の道具箱を持ち歩き、いつでも、どこでも描いた。大学で取れる最大数の授業をとり、夜は別の絵の学校に通った。1997年、ディズニーの学生向けワークショップに応募し、補欠枠で滑り込む。名だたる描き手たちに直接薫陶を受け、「アニメーションでやっていきたい」という気持ちが芽生える。

教育ゲーム製作会社に就職した後も友人の身分証を借りて美大に潜り込み、絵の腕を磨き続けた。その後、念願のアニメスタジオに転職し『アイス・エイジ』などを手がけ、ピクサーの監督、リー・アンクリッチ(48)の目にとまる。「一緒に仕事をしよう」とメールが届き、2007年、同社初の「光と色専門のアートディレクター」に起用された。『トイ・ストーリー3』で、主役のおもちゃたちが安心できる場所に木漏れ日を、悪役おもちゃには陰をおくタッチは評判を呼んだ。

背景担当アートディレクターとして堤を迎えたコンドウは「彼はすごい働き者として業界で知られていたから、少し恐れた」と言う。堤は堤でコンドウの絵に憧れ、「ジェラシーを感じていた」。お互い、絵を描けば誰よりも先に見せ、批評し合い、いつしか影響し合うようになる。

僕が絵を描く理由

手描きの短編『ダム・キーパー』は、いま取り組んでいる長編で3Dとなる。資金的な課題もあるが、「なんとしても作りたい。一緒にやってくれる人が現れると信じています」 photo:Semba Satoru

順調にキャリアを積む一方、堤は「僕が絵を描く理由って何だろう」と思い始める。その頃、世界のアーティストに順に描いてもらう企画「スケッチトラベル」が完成。競売で得た収益をNPOに寄付し、カンボジアなどに建った図書館を見て、問いはますます膨らんだ。

「映画を自主製作しよう」。12年1月、コンドウに共同監督を持ちかけた。会社の前に窓もない小さな部屋を借り、1年以上かけて物語を練った。3カ月の休暇をとって製作に入る直前、信頼する同僚を集めて絵コンテの試写をした。反応は「さっぱりわかんない」。製作に加わる予定だった同僚は途中で席を立った。

「ショックでした。プライドもズタズタ。でも自分でも、作品から感情が全然伝わってこないのがわかった」

ボランティアスタッフ約70人が日程をあけて待っていた。「なんとかしなきゃ」。次々と案を出すコンドウと練り直す。

そうして滑り出した製作もやがて行き詰まり、コンドウとも一時険悪に。思うように進まないいらだちをぶつけたり、葛藤を隠すためにわかったふりをしたり。ついにはけんかになった。堤は仕事で東京に向かう機内で長いメールを書いた。「きみを尊敬しているから誘ったのに、劣等感や弱い部分が出てしまい、申し訳ない。でも一緒に完成させたい」。コンドウから「自分も同じだ」と長い返信が届く。「そうして弱さを認め合ったらすべてがスムーズに動き始めたんです」と堤は言う。

「彼が決めたことは、必ず実現する」とコンドウは言う。「そのパワーはまるで機関車。彼の提案がなければ、僕は作品を作っていなかっただろう」

製作スタッフは大学を出たばかりの若者も多く、最初の約1カ月は外でのスケッチ練習に費やした。「人は成長する時に最もいい仕事をする」と身をもって感じてきた堤の提案だ。スタッフで画家の長砂賀洋(30)は「堤さんは僕らの絵を否定して直すようなことはしない。特徴を保ったまま、より良くしてくれた」と言う。

14年春、サンフランシスコの小学校で上映会をした。なぜブタくんはいじめられるのか、なぜ人は人をいじめるのか。真剣に議論する子どもたちを見ているうち、涙がこぼれた。ゼロから作り上げた物語が、人の心に届くのをじかに見届けられる喜び。「何のためにこの仕事をしているのか、わかった気がした」。初めて自分の物語を織り上げた堤には、古巣のピクサーが「違う風景」に見えてきた。

いま、コンドウらと『ダム・キーパー』の長編化に取り組む。アカデミー賞ノミネートを受け、今年6月には賞を選ぶ米映画芸術科学アカデミーから会員への招待が届いた。白人や高齢の会員が大半のアカデミーで貴重な1票を手にすることになる。「次の世代のため、良質な作品を世に出していきたい」(文中敬称略)

自己評価シート

「行動力」「持続力・忍耐力」に迷わず5をつけた。「地道なことは全然平気だし苦にならない。飽きっぽくないですね」。何を言われても描き続けてきただけある。「協調性」を3としたのは「自分の考えを抑えてまで周りに協調しないから」。小学校1年の時、理科の実験結果を予想する議論で、級友たちが次々と多数派に流れる中、自分1人が意見を変えなかった。結果はそれが正解。「自分が納得いかなければ話し合いたいんです」。最後に「1や2がないのはすごく図々しい気がするんですけど」と笑ったのは彼らしい。

MEMO

友人ゲルレと始めた「スケッチトラベル」で2010年11月、フレデリック・バックのもとへ。このあと、最後のページを宮崎駿が描いた(本人提供)

手渡されたバトン…スケッチトラベルの終盤、大御所フレデリック・バックのいるカナダへ。海の汚染に警鐘を鳴らす絵を堤に手渡し、バックは「きみにはアートの才がある。社会のために生かさないと意味がない」と言って、自身のアカデミー賞受賞作『木を植えた男』の貴重な原画を1枚、堤に贈った。木を植えた老人を若者が追う象徴的な場面。「アーティストの自由を楽しんでほしい」。彼はこの3年後、亡くなった。

「メイちゃん」…妻は小学校1~2年の時、ひそかに憧れた芽以(42)。監督・宮崎駿が『となりのトトロ』のメイのモデルにした実の姪だと後年知る。堤が2007年、仕事で会った宮崎に初恋の相手だと打ち明けると驚かれ、「あの子変わってるからまとまんなくてよかったね」。その翌日、18年ぶりに偶然、彼女と再会した。「メイちゃんそのままの、のんびり屋さん」。09年に結婚し、11年、長男・仙樹が生まれた。

文と写真

文・藤えりか
1970年生まれ。LA支局長時代に初めて会った堤さんへの一貫した印象は「静かなる情熱の人」。

写真・仙波理
1965年生まれ。朝日新聞カメラマン。アフガン、イラク戦争などを取材。