What do we lose when the finl survivor of a mass disaster dies?
1906年4月18日、ウィリアム・A・デルモンテは母親にテーブルクロスにくるまれ、家から飛び出した。水道管もガス管も破損、窓ガラスは粉々に飛び散り、電線はよじれ、ひび割れた地面に2メートル近い溝が刻まれた。小さな火の手が上がり出し、大きく傾いた家屋は今にも崩れそうだ。
その地で地震後の数時間を過ごすということがどのようなものだったか、生存者の書簡や観察記録で追体験できる。午前5時12分、45~60秒間にわたって大地が揺れ、「酩酊」感覚をもたらし、余震でその日は地盤が不安定だった。石畳の上を荷物がひかれていくずしん、ずしんという音もとらえられている。
当時はまだ橋は架かっておらず、一家は対岸のオークランド行きのボートに乗り込んだ。向かう先には所有している農場があり、街を離れることができたのだ。船上での3日間、1000度超の炎に包まれて燃えゆくサンフランシスコを一家は見ていた。508もの区画が焼け落ちた一帯は再生まで20年かかったと言われている。
行き場をなくした住民が落ち合ったロッタ噴水には、友愛結社サウス・マーケット・ボーイズ・クラブによって花が手向けられた。災害の慰霊碑となったこの場所では1919年以来、毎年4月18日の5時12分に大々的に噴水が上がり、追悼集会が開かれる。出席者たちは山高帽につけひげ、年季の入った防火ヘルメットなど当時の装いを再現する。およそ3000人の犠牲者に向けて黙とうを捧げる厳かな1分間に続き、消防当局の警告が響き渡る。1906年のような悲劇がいつ何時起こってもおかしくありません、と。
出席者の一人が、あのデルモンテだった。株の売買をたしなみ、10人が10人素敵な男性だと語る。両親から伝え聞いた、生後3カ月当時の脱出劇をいきいきと語る彼こそが、サンフランシスコ大地震最後の生存者だったのだ。
地震に関する写真や書簡といった膨大なデジタルデータは、州の図書館や歴史協会の尽力によって保存されている。しかし、最後の生存者が亡くなる喪失感はどんな熱心な歴史家が持ちうる資料よりも大きい。昨年のデルモンテの死はその意味で、アーカイブ化された記憶に対して「生ける記憶」の価値を考えさせる契機と言える。実際に生き抜いた人々の存在が、過去を繰り返すまいという決意となって、いかに後世を奮い立たせてきたかを知る機会でもある。
生存者の声は、いくつもの優れた取り組みや良案を生み出してきた。被災地域のベイエリアでは、より頑丈な消火ポンプが導入されたり、次なる揺れに備えた建築規定が採用されたりした。震源となった断層付近をベイエリアの科学者たちが解析し始めたことで地震学調査が飛躍もした。北カリフォルニアには数十の活断層があることも今ではわかっている。米国地質調査所は最近、今後30年間にベイエリアで新たな巨大地震が起こる危険性は72%にのぼるとした。シアトル沖のカスカディア沈み込み帯により危険な断層線が潜み、いつ活発化してもおかしくないという。そうなれば、先の地震の30倍ものエネルギーが街を襲う。
デルモンテが熱心に出席した集会の支柱となっていたのは、生きた記憶が客観的事実にとって代わられてはならないということだ。私たちが耳を傾ける限り、そう語りかけてくれている。
(ジョン・ガートナー、抄訳 菴原みなと)©2016 The New York Times
Jon Gertner
ニュージャージー州在住ライター。ニューヨーカー、ワシントン・ポストにも寄稿。ニューヨーク公共図書館特別会員。
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