「象牙の奇跡」が見た地獄
日々の暮らしとは直接関係のない、遠い外国の事情について知ることに意義があるとすれば、それは何だろうか。
アフリカ大陸の大西洋岸に、1960年にフランスから独立したコートジボワールという国がある。人口およそ2300万。チョコレートの原料カカオの世界的産地として知られ、2010年以降、年によっては2桁を記録する順調な成長を続けている。国際通貨基金(IMF)の統計では、16年の実質GDP成長率は7.5%を記録した。2017年も6.9%の安定した成長が見込まれている。
今でこそ成長軌道をひた走るコートジボワールだが、今世紀はじめのおよそ9年間、この国は内戦を経験し、地獄を見た。筆者は内戦中の06年6月に政府支配地域と反政府勢力支配地域の双方を取材で訪れた経験がある。反政府側の街では学校が閉鎖され、病院には医師もおらず、薬もなく、都市機能は麻痺し、多数の住民が劣悪な衛生環境の下で避難生活を送っていた。
内戦が始まったのは今から15年前の2002年9月だった。国土の北部で国軍から離反した兵士750人が武装蜂起し、反乱の狼煙はみるみる拡大した。同国の首都は、法律上は国土のほぼ中央部に位置するヤムスクロという人口20万ほどの小さな街だが、実際の政府機能はギニア湾に面した南部の大都市アビジャン(人口約440万)に置かれている。北部の広い範囲を制圧した反乱軍と、アビジャンの中央政府軍との泥沼の戦闘の末に戦況は膠着状態に陥り、コートジボワールの国土は11年まで南北に分断された。
コートジボワールを60年の独立から33年間統治したのは、「建国の父」である初代大統領のフェリックス・ウフェ・ボワニだった。西側資本を積極的に導入するウフェ・ボワニの政策は繁栄をもたらし、60年から80年までの実質GDP成長率は年率平均6.2%を記録した。アビジャンはガラス張りの高層ビルの周りを高速道路が走る巨大都市に成長し、同国の経済的成功は「象牙の奇跡」と称賛された。
そんな経済的繁栄を謳歌したコートジボワールが、今世紀に入ってなぜ、内戦で国土が二分される状態にまで転落したのだろうか。
ナショナリズムと排外主義の台頭
60~70年代の高度成長後、同国経済は通貨政策の失敗や主力産業のカカオの国際価格の下落などで失速していった。80年代に入ると経済が低迷し、90年代前半には政府債務がGDP総額に匹敵する規模に達した。
経済情勢が悪化する中、独立から33年にわたって国を率いたウフェ・ボワニは93年12月、現職大統領のまま88年の生涯を閉じた。憲法の規定により、国民議会議長のコナン・ベディエが大統領代行に就任したが、任期は95年10月に予定されている大統領選までだった。一部の国民の間には、ウフェ・ボワニの下で首相を務めていたアラサン・ワタラこそが後継者にふさわしいとの声が高まっていた。
経済が低迷し、庶民の生活が厳しさを増す中で、国民の閉塞感を背景に台頭したものがあった。ナショナリズムと愛国的排外主義である。
94年12月8日、ベディエ大統領代行の与党が多数を占める国民議会は、95年に予定されている大統領選挙に適用される新選挙法案を賛成109票、反対13票で可決した。この新選挙法に対し、ワタラの擁立を目指す野党勢力は猛反発した。同法が、ワタラの大統領選への出馬を難しくする内容だったからである。
新選挙法には、候補者の条件として「生まれた時から継続してイボワリアンであること」という内容が盛り込まれた。さらに大統領選に関しては「候補者本人が満40歳以上であり、候補者本人に加えて両親が生まれながらのイボワリアンであること」と定めた。
ワタラはかねがね、自分が隣国ブルキナファソで少年時代を過ごしたと公言していたが、出生地についてはコートジボワールであると主張していた。
ところが、新選挙法案の審議が議会で始まると、与党系メディアは「ワタラ、彼の父親ともに本当はブルキナファソ生まれだ」と繰り返し報道するようになった。そして、ワタラは新選挙法で定められた「イボワリアン」の資格を有していないので、95年に予定されている次期大統領選挙への立候補資格はないと強調した。
かつては移民の力を糧に発展
日本の読者のためには、新選挙法に盛り込まれた「イボワリアン」という概念について説明が必要だろう。
新選挙法は、大統領選への立候補資格として①候補者本人が満40歳以上であること、②生まれながらのイボワリアンであること───を定めた。
しかし、仮に「イボワリアン=コートジボワール国籍保持者」だというのならば、40歳以上の立候補者が「生まれながらのイボワリアンであること」はあり得ない。コートジボワールの独立は60年。大統領選は95年。少し考えればわかるが、独立して35年の国家で「40歳以上の生まれながらの国籍保持者」が存在するはずがないからである。
独立前のフランス植民地時代にも「コートジボワール国籍」に相当する制度は存在せず、一部のエリート住民が「フランス国籍」を与えられ、一般の庶民は「原住民」として分類されていた。全住民に「国籍」が付与されたのは53年のことであり、その際に与えられたのも「コートジボワール国籍」ではなく「フランス国籍」だった。
結局、イボワリアンには明確な定義が存在せず、「昔からコートジボワールの土地に住んでいた人の子孫」といったぼんやりした括りでしかなかった。
だが、経済が低迷する中でナショナリズムと愛国的排外主義が台頭していた90年代のコートジボワールでは、「イボワリアン」の考え方が広く支持されることになった。このように国民を「イボワリアン」か「非イボワリアン」かに分ける考え方を「イボワリテ民族主義」という。
コートジボワールの国境線は、そもそも旧宗主国が勝手に設定したものだったので、独立後の国内には多数の民族が暮らしていた。建国の父ウフェ・ボワニはこうした社会の実態に合わせた国づくりを進め、コートジボワール在住の外国人に国政選挙への投票を認め、穏やかな条件で国籍を付与した。寛容な移民政策の下、「象牙の奇跡」の恩恵に与ろうと周辺国から移民が殺到し、コートジボワールは全居住者の約3割が外国人という世界有数の移民国家となった。60~70年代の同国は、移民の力を糧に発展してきたのである。
「愛国青年」のヘイトスピーチ
90年代に台頭した「イボワリテ民族主義」は、こうした社会の実態を無視する思想だったが、閉塞感に苛まれた国民、特に南部の住民の中に、これを支持する人が増えた。
イボワリテ民族主義を掲げたベディエは95年の大統領選で圧勝し、南部の住民は彼の「純血路線」に喝采を送った。移民の子孫の多くは国の北部に居住していたからである。
ベディエは外国人の土地所有を禁じ、「イボワリアン」ではないとされた北部の住民は、雇用などで差別されるようになった。「純血」にこだわる南部住民と、迫害対象となった北部住民の対立が深まったことは言うまでもない。
99年12月、ロベール・ゲイ元軍参謀長がクーデターを決行し、事態の打開を図ったが、国民の反発で国外逃亡を余儀なくされ、「イボワリテ民族主義」に固執する排外的な「イボワール人民党」のローラン・バボ(バグボ)が政権の座に就いた。
愛国的な排外主義を強めるバボ政権の下で、「愛国」を掲げるシャルル・ブレ・グデという若い政治家が登場した。グデはアビジャンで集会を開催し、「イボワリアン」でない居住者の排斥を訴えて喝采を浴びた。グデは「愛国青年」という政治団体を主宰し、集会やデモでは「イボワリアンでない者はコートジボワールから出ていけ」というヘイトスピーチが猛威を振るった。
コートジボワール南部社会における排外主義の高まりに対し、コートジボワールへの移民送り出し国であるブルキナファソ、マリ、セネガルなどの周辺国は危機感を表明した。だが、バボ大統領は逆に周辺国を非難し、「愛国青年」がこれに喝采を送った。コートジボワールの国際的孤立は深まり、南北の分断は進んだ。内戦の勃発は時間の問題だった。
一党支配、排外主義、近隣国との関係悪化…
02年9月に始まった南北内戦は、翌年の和平合意で形式的には終結したが、バボ政権は和平合意を履行せず、混乱は長期化した。結局、紆余曲折の末にバボ大統領が11年4月に身柄を拘束され、南北に分断されていたコートジボワールはようやく再統一された。同国は長い混乱の末に、ようやく本稿の冒頭で紹介した高度経済成長に辿り着いたのである。
国民の間に広がった「イボワリテ民族主義」を背景に成立したバボ政権の愛国・排外主義政策を批判し、フランスへの亡命後に亡くなったコートジボワールの小説家、アマドゥ・クルマは、イボワリテ民族主義が「破滅的な結果へと国を導いていった」と書き残している。
「象牙の奇跡」と呼ばれた高度成長の後に常態化した経済低迷。巨額の政府債務。庶民の生活水準の低下。長期に及んだウフェ・ボワニ率いる与党の一党支配と、その後の混乱。与党ベッタリの政治メディア。排外主義の台頭。苛立ちや閉塞感を他者への攻撃で解消する風潮。扇動型政治指導者の登場。ヘイトスピーチの拡散。近隣国との関係悪化───。これら全ての積み重ねの末に内戦は始まり、コートジボワールは地獄を見た。内戦の始まりは02年9月19日。まもなく開戦から15年を迎える。