第9回、なんともうすぐ10回になってしまうという。恐ろしい話であるが、今回はちょっと真面目な話をトリップミュージアムでしてみようかと思う。
確か、5回目のトリップミュージアムで書いたと思うのだが、2カ月弱行われていた北アルプス国際芸術祭がついに閉幕した。
私が作った「第一黒部ダム」、別名“黒部ダム温泉”という作品は、多い週末は、1日700人以上が足を運んでくれたという、大町ではちょっとは知られた作品となったらしい。実際現場を見ていないので、リアリティーがないのだが、多くの人の記憶に残る作品となり、第5回で登場した、呉服屋のおばあちゃんの予言通り、大盛況で閉幕した。また、芸術祭自体も、累計で40万人以上の集客を突破したとの発表があり、大いに盛り上がったところで、閉幕したのであった。
実際、私の作品は、3カ月近く、多くの人たちの手と思いによって作られた、地元の象徴「黒部ダム」である。しかも、ほとんどの人が見たこともない版築の工法による、地元大町の土でできた黒部ダムなのである。私は、良い、悪いは別として、「さて、この作品はどうなるのかな?」と、かなり客観的に見ていた。 実際作家の多くは、作品を残したい、と思うと同時に、とっとと撤去したい、と思うのも事実である。もちろんそれは、維持の大変さもそうであるが、常に自分の作品のことに気を揉まなくてはいけないことも含まれている。特に私の作品のように、自然の素材を多く使うアーティストにとって、常に良い状況で見せられないことや、破損の可能性が高いことで、なかなか保存や維持のケースになることがない、いや、いまだ私の作品においては、なったことがない。 いや、そういえば、一つ例外的な作品は、あるといえば、ある。私がドイツに行き、4年ぐらいが経った頃の話である。
ドイツには、「ドクメンタ」と言われる歴史的にも、世界的にも、非常に有名な芸術のオリンピックと言われる芸術祭がある。それは、ドイツ中部の都市、カッセルといわれる中規模の街で行われる芸術の祭典なのであるが、今年はその開催年となり、他のヨーロッパの国の芸術祭とあわせ、ヨーロッパ中を賑わせている。 今年は、ドクメンタ14であるのだが、それは1997年、ドクメンタ10の時の話である。当時私はカッセルの街にある、芸術大学の学生で、日本人学生は2人しかいなかったと思う。確かデザイン学科に1人いる、と聞いていたが、その人と会ったかどうかも覚えていない。そんな学生時代、もちろん地元の芸術大学だけに、その大学の芸術祭をその期間にぶつけてくる。学生たちの作品も多くの世界中の人たちに見てもらえるチャンスなのである。すでに29歳という全然若くない学生の私は、ここはもう勝負であると頑張って作った作品がある。コンクリートの家から、4本の樫の木が生えている作品だ。この作品は、いつかこの4本の木が育ち、成長した木がコンクリートの家を壊していくというコンセプトのもとに作られているため、壊すわけにはいかなかった。もちろん、ドクメンタの期間中は良かった。しかし、期間が過ぎ、芸術祭も終わり、いつもの生活が戻った頃、私の生活もいつも通りハウスマイスターという、大学構内を管理する、我々の天敵のおっさんとの戦いが始まるのである。「いつ壊すんだ?」と、会えば聞いてきて、物凄いヘッセン訛りのドイツ語でまくしたてられる。とにかく、逃げに逃げまくり、教授からの勧告も逃げ(笑)、ついには1年後の芸術祭まで月日が経ってしまうのである。しかも私は、そのドクメンタの後のゼメスタ終了とともに、デュッセルドルフの大学へ編入してしまったため、彼は突然、ジェリーを失ったトムのように、追いかける相手を失ってしまうのである。それから20年。その作品のことなど全く忘れてしまっていたのだが、ネットが発達したお陰もあって、先日SNSでタイの友人のキュレーターが、一枚の写真をあげていた。Give nature a cement block house and it will branch and leaf.とコメントされていた。それはまさしく、自分のあのコンクリートハウスで、木は育っているものの家はまだ全然がっつり家の形をしていた。誰にも知られずまだ壊されていない、私の作品の一つである(笑)。
またもや長い説明になってしまった……。そう、北アルプス芸術祭である。今回の作品は、私の中では、地元長野の大町の象徴、そして誇りでもある黒部ダムを作った。土の版築で作ったものである。これは、下手すれば、コンクリートよりも硬くなるとも言われている。ダム湖側に作った、足湯や湖などを解体し、建物の中心に黒部ダムだけでも残せば、商店街の象徴になり、お客さんが芸術祭以外でも足を運んでくれる場所になるのである。前にも話したが、たいていの日本の芸術祭は行政との絡みがほとんどとなる。そうなると、多くが確認、書類、などの事務処理が多くなり、思うように事が進まない、と同時に、誰も責任を取りたくないため、責任の所在がどこにあるか、安全性の担保を誰が取るかなど、色々と手間や手続きが物凄く大変なのである。もちろんそれは承知の事だし、こちらも慣れているので、そこを問題としているのではない。実は一番厄介なのは、地元の名士的な、いや、ちゃちゃをいれてくるというか、責任も担保もしないが口だけは出す、というおっさんなのだ。
私の作品は、基本、「誰もができない、無理だ、危険だ、何かあったらどーすんだ、誰が責任取るんだ?」っていう作品である。それを、半ば強引に、そして強引な人たちとともに、かなり強引にやってきたから完成し、そして、その完成が、次の可能性を呼び、また出来ない、危険だ、無理だと言われ、しかし実現し、認めさせる。そういうことを20年間繰り返してきたわけである。そして、今回のような、かなりやっちゃってしまっている作品が出来上がるのだが、こちらからすれば、そんなにやっちゃっている作品でもなく、今回などはかなり手堅い作品であるわけだ。
しかし、必ずそこにシロートのちょっと建築をかじったようなおじさんが、またでたか……という夏のお化け屋敷のような感じで登場するのである。彼らが必ず言う言葉は、「これは無理だよ〜、危ないよ〜、誰が安全の担保するの?」である。しかもそれを市の実行委員会の人間に言うのである。実は今日のテーマ、この作品を残すか残さないか、ではなく、この、不安を売り物にする人たちのことを話したくて、ここまで延々と20年前のドイツまで旅してきたのである。本題に入ろう。実は私は今、病み上がりである。いや、病みの中か?長野の現場の解体に来て、憑き物を落とすかのように閉会式と同時に高熱にうなされ、このままここで死んだら、孤独死どころか、変死、むしろあいつは絶対自殺はしないから、事件のはずだ!! あいつだけは許さねーって言ってる奴を星の数以上聞いたこともある。飲み代のつけを払ってないのかもしれないし、借りた金をまだ払ってないはずだから、殺されても仕方ない。むしろ良かったな!などと、絶対言われるから死ぬわけにはいかない。40度以上の熱に苦しまされ、のたうちまわりながら、そんなことを考えていた。とにかくがぶがぶ水を飲み、塩を舐め、汗をかいてかいて丸2日。どうにか立てるぐらい復活をしたころで、ヨロヨロと、老人に抜かされながら、ようやくコンビニにたどり着いたのだが、さて、食べるものがないのである。いや、正直に言うと、体が食べたい、と言っているものがないのである。綺麗に包装された食べ物類が、どれも体に良いものに見えない。あの、ジョグジャカルタの、半分ちぢれて、腐っているような、もう、捨てろよと言われそうな、しかしそれが一番元気である野菜や植物、果物や食べ物たち。70円で食べられるブブールというお粥や、ソトといわれるお茶漬け。しかも、ここは長野である!! 食の宝庫やー!また話がずれたようであるが、要するに、私が言いたいことは、なぜ日本がこんな国になってしまったか、ということである。こんなに自然豊かで、こんなに恵まれた環境にいながら。すくなくとも、ジョグジャカルタより日本の方が素晴らしい食材にあふれているし、食の文化も伝統もすべてが全て優れているのに、弱っている老人が、いや、中年か(笑)、ちゃんとしたものをすぐ口にできない環境にある。
前にも話をしたが、今、日本人のどれだけの割合の人間が昼飯をコンビニで済ましているか。そしてその食べ物の中にどれだけの添加物が入っていて、我々の細胞レベルに影響を与えているか。すべては、あの不安を売り物にしているオヤジ達がいるからであり、それに賛同している我々がいるからなのである。
前に日本とインドネシアのジョグジャカルタの違いを書いた回があった。その時にも書いたが、まず、日本に帰ってきて一番に驚くことは、広告からコマーシャル、全てにおいて、不安を売りにしている会社がいかに多く、今の世の中を占めているのか、ということである。電車の釣り広告では、社会の不安、未来の不安、壁には、臭いの不安や、ムダ毛の不安、健康の不安から、貯蓄の不安。不安不安不安。誰一人として、今に生きていない。政治家を見てみれば、責任を取らされる不安から、自己保身に走り、嘘はもう堂々とついていいものだと、国の代表が開き直っている。いや、ここにいたら流石に狂ってしまうわ……。と、ほんとこの国はどこに向かおうとしているのか、それこそ大不安が頭をもたげてくる。お金儲けがいけない、という話ではない。間違いなく、不安を金儲けの道具に使い、人を不幸にしている人間達がいるのだが、その本人達も、お金がなくなる不安から、さらにお金を稼がなくてはいけないという負のサイクルに完全にはまっている。もちろんそれを仕掛けている人間達がいることは間違いないが、その話はここではやめるとして、とにかく、不安のバーゲンセールにより、大切なものが全て失われていることに、流石に我々は気づかなくてはいけない時代に入ってきているのである。我々は、幸せや喜びを与えるべきであり与えられるべきなのである。
今回の芸術祭の作品であっても、足湯があるのだから、寒い時期に町の老人達が集まる憩いの場にすれば良いし、やることがない人たちもたくさんいるのだから、その人たちが管理をすれば良い。それが次の芸術祭まで続いたら、それは素晴らしいことであるし、芸術祭とはこういうものであり、これが地域に根付いていくということなんだな、ということを町の人たちが実感するのだと思う。行政が全てやろうとしたり、コントロールしたり、責任を取ろうとしたりするから芸術祭は失敗する。
日本の世の中に蔓延する、不安病。そしてその不安病を撒き散らす人々。まずこの根本を見直さない限り、日本には、意味がわからず不安の塊でしかないアートなどの祭典は、まず根付かないのだろう。
意識が途切れ途切れになる中、そんなことを思った。今日も日本中にいる不安を煽るおっさん達、自己満足のために知ったかぶりしないでね。