――世界では、グローバル化を志向する経済と、主権を取り戻そうとする国家の間の緊張が高まっています。そのなかで、株主の利益追求を目的としない「連帯経済」の役割はどこにあるのでしょうか。
私たちは今、いくつかの点で第2次大戦前の1930年代のような時代にいます。人々は将来に不安を持ち、自分の子ども世代の将来も心配している。なぜならグローバル化がもたらす不確実性が極めて大きくなっているからです。そのため人々は、ポピュリズムや極右、人種差別のような後ろ向きの解決策を求めてしまっています。かつて経験したことのある仕組みや秩序の中でなら、自分たちを守れると思っているのです。
この困難な時代に連帯経済が役割を果たせるとすれば、グローバル経済から人々を保護・解放してあげることです。人々は不安を払拭(ふっしょく)したいし、自分たちの立場が安定するよう求めているのです。それは当然の権利です。ここブラジルでの数々の実践をみればわかるように、連帯経済は、後ろ向きの解決策に走ることなく、多様な生き方を追い求める人たち同士をつなげる役割を果たしています。
――ただ実際には、市場の行きすぎに対処するには、連帯よりも国家こそが解決策だという風潮が強まっているように感じます。
そうなのです。私たちは、20世紀の議論がずっとそうであったように「市場が十分でなければ国家の出番」という、市場/国家の二元論に陥りがちなのです。連帯経済が示そうとしているのは、21世紀にはこの二元論では不十分だということです。私たちは新しい三角形の思考が必要なのです。それは、市場、国家、そして市民社会です。国家は必要ですが、十分ではありません。
――国家の機能で大事なのは再分配ですが、それでは不十分だと。
再分配は必要ですが、それだけではダメです。経済は市場だけで成り立っているわけではなく、国家の再分配があって、さらにコミュニティーでの共同作業や家事などもあります。ブラジルなど南米についての多くの研究が明らかにしたのは、成人の半分ほどは、非公式な仕事についているということです。人々がどのように暮らしているのかを全体として理解しようとすれば、彼らは市場と国家のみで暮らしているわけではなくて、家庭内やコミュニティーでの統計に表れない日々の関係のなかで暮らしていると気付くはずです。
自分のことを考えてみてください。私たちが日々暮らす中で、かならずしも市場や再分配とは関わりのない行動はたくさんあるはずです。私たちは、あまりにも市場/国家の二元論のメガネに慣れてしまったせいで、新しい見方をするのが難しいのは承知していますが、それを乗り越えて21世紀らしい新しいステップへと踏み出す必要があるのです。
――市場/国家の二元論のメガネがそれほど強固なのはなぜなのでしょう。
背景には、マルクス主義と自由主義をめぐる、19世紀からの込み入った歴史的経緯があります。その二つのイデオロギーのせめぎ合いの中で、国家と市場以外のすべての要素は、ユートピアであり、なんの現実性もないナイーブな夢であるとみなされ、それはまったく「存在しない」ものとして扱われるようになったのです。たとえばブラジルでは、国家が近代化を遂げる過程で、先住民たちの文化や経済は遅れているものとの烙印(らくいん)を押され、忘れ去られました。私たちは、いったんは忘れてしまった経済の多元性を再発見しなければなりません。経済とはもっと複雑なものだというイメージを思い起こすための努力が必要なのです。
連帯経済はある意味、とても弱い存在です。あまりに小さいがために、なんの重要性ももたないと思われてしまっています。しかし、それは将来への胚芽(はいが)ととらえることも可能なはずです。市場を補完する存在でも、国家を補完する存在でもなく、全く新しい何かになっていく胚芽です。
――連帯経済は最近の動きのように見えて、歴史的なバックグラウンドがあると指摘していますね。
近代社会は、基本的には市場に重きを置くことによって形づくられてきました。そのことは尊重されるべきだと思います。しかし、別の原理、つまり「連帯」も昔から重要な要素でした。その「連帯」には大きく二つの種類があります。一つめは、19世紀初頭の欧州など多くの社会にみられた「民主的連帯」と呼ばれるものです。フランス革命のスローガン「自由、平等、博愛」を具体化するもので、欧州や、ここ南米、そしてほかの社会でも様々な試みがありました。アソシエーション(協会)、グループなどによる実践です。この記憶は徐々に忘れ去られはしましたが、今広がっている連帯経済には、人々が自主的に集まって自由と平等の原理に基づいて公共財のために行動する、という歴史的なルーツがあるのです。
ところがその「民主的連帯」は20世紀、性格を変えます。それが福祉国家です。福祉国家による「連帯」は、人々が自ら結集するというよりも、社会的権利に基づく再分配という形をとります。私が間違いだと思うのは、福祉国家で十分じゃないかと考えられていることです。私は、いまの連帯経済について、民主的連帯が二つの「足」を持っていることを再発見する営みだと考えています。社会的権利に基づく福祉国家による再分配という「足」だけではなくて、もっと水平的な関係のグループ、つまり協会、協同組合、労働者協同組合などの形での連帯という「足」もあるのです。
――市場の至らない面を補うのは、確かに国家に限りません。では、NPOや社会的企業などは連帯経済に入らないのでしょうか。
連帯経済はしばしば「慈善事業」としてとらえられることもあります。しかし、慈善と連帯は違います。NPOなどによる慈善は平等の原理に基づいているわけではなく、いわば富める者から貧しい者への施しです。また「社会的企業」などの名で慈善事業をすることで資本主義を補おうという多くの動きがありますが、私はそれを連帯経済とは言いません。
――現実には、連帯経済は盛り上がっていると言えるのでしょうか。とくに2008年の経済危機以来の状況についてどう見ていますか。
連帯経済をめぐっては、これまでに二つの局面がありました。一つは、20世紀の最後の10年間で盛んになった、草の根でのさまざまな実験や実践です。それが、21世紀に入り、徐々に制度化されるようになりました。いまや30カ国以上で連帯経済がなんらかの形で公共政策に取り入れられたり、あるいは法制化されたりしています。それぞれは不十分なものですが、単なる市民たちの試みにとどまらない、公共政策にまで及ぶ、なにか新しいものが立ち現れようとしているのは確かです。
たとえばフランスでは、すべての地方政府の経済政策は、連帯経済を支援する枠組みがあります。それ自体は不十分ですが、20年前には全く存在しなかったものです。こうした動きは、未来の経済が市場と国家の再分配だけでなく、三つ目の要素によっても成り立つということに、みんなが気づき始めたことを意味します。
ここで重要なのは、私たちはちょうど経済の変わり目にいるということです。それは「物質経済」から「知識経済」への転換です。例えば、もし自動車を生産しようと思えば、連帯経済の出る幕はあまりありません。巨大な資本を必要としますからね。しかし、アイデアを持ち寄ることによって新たなサービスを開発しようというならば、連帯経済が活躍する余地はあります。実際に、コミュニティーバンク(地域銀行)のような試みは、すさまじい困難を乗り越えて、何十万もの雇用をスラム街に生み出しています。
――さまざまな形の連帯経済が広がっていますが、地理的には南欧と中南米のラテン諸国に偏っているようです。たとえばアングロサクソンの国々ではあまり聞きません。
おそらく、(独社会学者の)マックス・ウェーバーがプロテスタンティズムと資本主義の関係を説いたのと同じように、私たちもカトリックと連帯経済の関係について考えないといけないのだと思います。しかし、その点をめぐっては十分な研究がないのが実情です。ただ、一般的に言って、ほとんどのラテンの国々では、ほかの地域ほど国家が強くありません。そのため、市民社会が比較的存在感を持ち続けてきたことが背景にある、とは言えるかもしれません。
――南欧と、中南米の間の違いは。
政治的文脈も経済状況も中南米と南欧では異なりますが、私が印象的だと思うのは、その両者の連帯経済の違いよりもむしろ、両者が互いに合流しつつあるということです。個々の実践のありようは異なりますが、日々の暮らしの中で人々がつながることに基礎を置いた民主的連帯という意味では、どれも基本的に同じものだと私には思えます。
――市場と国家の関係についての議論をもう少しさせてください。ラテンアメリカや南欧は市場も国家も脆弱なので、社会やコミュニティーに基づく経済が根付いたということだと思います。一方で、北欧諸国のように強い国家と強い市場の組み合わせでグローバル化に立ち向かう、という方向性もあるのではないですか。たとえば、今議論が盛んになっているベーシックインカムは強い市場と強い国家を組み合わせた極端な例だと思いますが、どう評価しますか。
ベーシックインカムについて考えるのは大変興味深いことです。しかしそれはすべての問題を解決するような奇跡にはなり得ません。たしかに私たちは所得について(役所の裁量にゆだねられたり、属性によって区別したりしない)普遍主義的なアプローチをとる必要があるのは事実です。いまは、特定のグループのみに恩恵が行くシステムがあまりに多く併存しています。これはどの国でも言える問題です。しかし、私は今の世界の問題が、所得に関係することだけだとは思いません。問題は、社会的なつながりや、コミュニティーへの帰属でもあるのです。だから私は連帯経済が少なくとも補完的な解決策になると言っているのです。なぜなら連帯経済は友人たちから孤立して社会的なつながりをなくした人々に所得をもたらすだけでなく、経済活動を通して社会に統合される道筋も提供しているからです。
――連帯経済が所得に限らない「安全網」として役割を果たしているのはよく分かりました。ただ、私の中心的な問題意識は、連帯経済が「グローバル化の敗者」を救う安全網にとどまるのか、あるいは、グローバル資本主義のオルタナティブ(対案)になりうるのか、ということです。
それがまさに中心的な問題であることに同意します。私は、連帯経済を、競争についていけず国際市場のなかで戦っていけない敗者のためだけの「サブ経済」におとしめてはいけないと思います。現実の経済のリズムについていけない人たちによる、単に競争力のない経済になってしまうリスクがあるのです。私たちは、このリスクに意識的でなければなりません。実際に公共政策が連帯経済を取り入れはじめたとはいっても、なかには「安全網」として連帯経済を使うというロジックにとらわれたものがあるからです。
一方で、連帯経済はオルタナティブになる、とも簡単には言えません。というのも、いったいなんのオルタナティブなのか?あるいは、どの程度?と突き詰めて考えないといけないからです。ただ、経済に対する新しいアプローチ、つまりもっと多元的に経済をとらえる、という意味で連帯経済は決定的な要素だと思います。私たちは市場経済を抑圧しようと考えているわけではありません。また、国家による保護を軽視しているわけでもありません。私たちは、経済に対してもっと多元的なアプローチが必要ではないかと言っているのです。
その意味で、ボリビアやエクアドルの憲法で認められた「ブエン・ビビール」(良き暮らし、という意味のスペイン語)という考え方が大変重要だと思います。できるだけ大勢の人のよりより暮らしを実現するためには、これまでのように経済成長を最大化するという方向性ではなくて、多元的な経済のありようをもっと認めていくことが必要なのです。確かに市場経済があり、公共経済がある。それだけでなく、第三の要素である連帯経済もあるのです。多元的な経済という枠組みで考えると、連帯経済は、市場や国家に従属する単なる「サブ経済」や「安全網」ではなくて、それらと並列した当たり前の、正統性のある経済なのです。
――20世紀の経済体制には、たとえばマルクスやケインズのような「大理論」が存在しました。一方で、連帯経済は、まず実践を積み重ねる中から徐々に理論が生まれていくものなのでしょうか。
連帯経済にも「ルーツ」となる理論はあります。私に言わせれば、それは(『大転換』などを著したオーストリア出身の経済人類学者)カール・ポランニーです。主流派の経済学に対して全く別の経済像を示したのが彼だからです。市場という存在は、必ずしも自然ではないと論じ、そしてまた経済そのものも自然ではないとし、経済は制度として形成されていくプロセスなのだと考えました。ポランニーの枠組みを改良していくことで、私たちは新しい経済の姿を構想することができるのです。マルクスとケインズの世紀を経て、今私たちはポランニーの世紀へと向かっているのです。
――ここしばらく、グローバル化をどうとらえればいいのかの取材を続けてきたなかで、確かにポランニーの名前を聞くことが増えました。死去から半世紀を経て、いま再びポランニーが見直されているのはなぜなのでしょうか。
彼はかなり長い間、ほとんど無名でした。とても異端の思想家だったのです。それがこの10年ほどでしょうか、さかんに引用されるようになりました。ポランニーの思想はいままさに重要性を増しているからです。彼の思想の枠組みは、1930年代を分析するなかで生み出されたものです。彼は、市場経済が行きすぎると、それは市場経済ですらなくなり、「市場社会」になるとと説きました。それは社会的なつながりの危機をもたらします。たしかに私たちは市場経済を必要としていますが、また別の形の経済も必要になる。このことを、ポランニーは強く主張したのです。
もし私たちが権威主義やポピュリズムなどの後ろ向きな解決策をとりたくないのであれば、もっと経済を多元的にしていく余地をつくらないといけません。ポランニーの基本的なメッセージは、私たちがもし民主主義を維持したいと思うのならば、経済を民主化しないといけない、ということです。私は、彼のこのメッセージが今の世界にとても、とても強く響いているのだと思います。
――話を元に戻すようですが、いまおっしゃった「経済の民主化」というのは、多くの研究者にとっては、自由な市場経済のことを意味するのではないですか。
たしかにそうです。(オーストリア出身の経済学者)ハイエクなど新自由主義の論者たちによる枠組みに基づくと、そうなってしまうのです。ハイエクは、市場こそが民主主義を実現する手段だと本当に考えていました。あるいは、民主主義よりも市場が大事だとすら考えていました。私は、こうした極めて個人主義的な市場と民主主義の定義に対し、真っ向から戦っていかなければならないと思います。こうした個人主義を超え、すべての人間は弱いけれども大事な存在であるということを示し、真に理性的な分析に取り組まなければなりません。もし自己実現したいと思ったからといって、ハイエクが言うように厳しい競争を勝たなければならないわけではありません。連帯の中で自己実現することだって可能なのです。それは問題が全くないということを意味しませんし、一切の葛藤がないことも意味しません。ただ、あなたがもっと先に進みたければ、ほかの仲間を必要とするはずです。この点がポランニーとハイエクの根本的な違いなのです。この二人では、人類学的な見方が全く正反対なのです。
――現状を見る限り、ほとんどの連帯経済の試みは小さくて脆弱です。そのせいか、連帯経済など取るに足らない動きだとの評価もあります。どう反論しますか。
なにか新しいものが世界に立ち現れようとしているとき、それが不十分だといって批判するのはおかしい。悲観的でネガティブな解釈がありうることは分かっています。しかし、全く何もないじゃないかと文句を言うことだけでなく、なにがそんなに新しい考え方なのだろうかと目をこらし、それを突き止めることもできるはずです。実際に公共政策に反映されていることからも、この10年でだいぶ受け止めが変わってきました。
ブラジルでの数々の実践が示しているのは、連帯経済がすでに風景の一部だということです。もちろんもっと認知され、理解される必要はあります。しかし、それはそこに実在しているのです。ユートピアや理論だけが孤立しているわけではありません。大事なのは、私たちが全く別の理想社会に向かって戦っているわけではなくて、すでに存在しているものを評価しようとしている、ということなのです。これは大変現実的なアプローチなのです。
――ラテンの国々の経験の、日本への教訓はなんでしょうか。
私が日本について語るのは難しいですが、一つ言えるのは、フランスの経験が参考になるということです。フランスではたくさんの実践がありましたが、それぞれがバラバラで、つながりに欠けていました。しかし、それを理論的なレベルで「連帯経済」と名付けたことによって、個々の試みを一つの言葉でくくり直すことができました。これは日本でも同じだと思います。日本社会でも、私たちの言う連帯経済にあたる試みはすでにあちこちで実践されているはずですが、それが理論的に統一されているわけではないようです。いまこそ、「ブエン・ビビール」の考え方を、日本に導入するときではないですか?(笑)
(聞き手・江渕崇)
Jean Louis Laville 1954年生まれ。フランス国立工芸学院教授。世界の連帯経済研究の第一人者。