宮城県気仙沼市。東日本大震災で大きな被害を受けたこの漁業のまちで、震災から2年後に御手洗らが立ち上げた「気仙沼ニッティング」。遠洋漁業の男らも船上でいそしむという編み物という地域の伝統が、「フィッシャーマンズ・セーター」として新たな産業を生んだ。
4人の編み手が編んだ4着のカーディガンから始まり、いまは50、60代の女性を中心に、約60人の編み手を抱える。震災で勤め先を失った人や、家庭の事情で定時の仕事ができない人たちも、自分のペースで、自宅で仕事ができる。
目指すは100年続くブランド
柄がはっきり出るけれど着心地は柔らかくなるように特注した毛糸で、何十時間もかけて手編みする。定番商品は1着7万円台から。人助けにちょっと買おうか、という代物ではない。それでも、オーダーメイドのカーディガン(15万1200円)は「約300人待ち」で、手に入れるのに2年半かかる人気だ。
めざすのは、例えばエルメスのような、100年以上も続く老舗ブランドだ。だからこそ、御手洗は品質に妥協しない。思いは編み手も同じだ。ある女性(63)は「ここで働いているプライドみたいなものが高まっている」と言う。仕事をする自宅では、臭いや湿度にも気を配る。「つくれるものをつくる、のではなく、本当にほしいと思われるものをつくる」と御手洗は言う。そして「稼げる」というだけでなく、仕事や地域に「誇り」を持てるようにする。それが、彼女がこのまちに残したい仕事だ。
デンフタから東大、マッキンゼーへ
生まれも育ちも東京。高校まで皇太子妃の出身校として知られる田園調布雙葉学園で学んだ。東京大学に入り、世界的コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーに就職した。
きらびやかな経歴のお嬢様がなぜ、ひとり東北の漁師町に? そんな質問をすれば、御手洗に、紋切り型の記事しか書けない記者だと見透かされそうだ。働く場所や肩書は、あまり問題ではない。心の奥にあるのは、子どもの時に聞いた母親の言葉だ。
小学6年の時のこと。学校で先生に「将来は何になりたいのか」と聞かれ、答えられなかった。家に帰って言うと、母親の照子はこう諭した。「何になりたいかより、どう生きたいかでしょう」
両親は好奇心の強い娘を、小学5年の時にポルトガルで開かれた国際キャンプに送り出した。世界十数カ国の同世代と1カ月を過ごした。「夏休み明けに学校の教室に戻ると、世界がすごく小さく、身近なものに感じた」。それまで、ただ地図上の固有名詞だった国や地域で、友だちが日常生活を送っている……。「その感覚はいまも覚えています」
学生時代には、途上国の農村リーダーを育てる学校でボランティアとして一緒に畑仕事にも励み、国際協力の分野に進むつもりだった。マッキンゼーを選んだのは「大きな仕事をするための力をつけたい。そのために、ビジネスの世界を知った方がいい」という気持ちからだ。
25歳でブータン首相フェロー、仕事は自分で作った
入社3年目で、めったとない話が舞い込んだ。絶対君主制から民主化されて間もないブータン王国の政府が、国内の産業育成を支援する外国の若い人材を求めているという。会社の上司経由で話が来た時には「もちろん、手を挙げた」。退社し、ヒマラヤ山脈のふもとに降り立ったのは25歳の時だった。
肩書はブータン政府の「首相フェロー」。とはいえ、国の役所ものんびりしたこの国のこと。これといった仕事の指示はない。
「自分の時間をどう使えば、もっとも効果的に役に立てるか」と考え、観光産業の育成を申し出た。旅行会社にヒアリングをして課題を聞き出したり、航空会社とかけあってアクセスを便利にしたり。政府観光局の組織改革にも携わった。御手洗のいた1年で、ブータンの外国人観光客数は大幅に増えた。
首都ティンプーで観光業を営む青木薫は、キラと呼ばれる民族服の袖をまくり上げ、細い腕を見せて現場を駆け回っていた御手洗の姿を覚えている。「とにかくエネルギッシュ。頭が切れて、すべての行動に目的があるって感じ」
現地には、日本政府の援助関係者を中心とする日本人コミュニティーもあったが、御手洗はつき合いに一線を引いていた。「私はあくまでブータン政府の職員。なれ合いの関係になってしまうと、仕事上の問題が起きることがある」
そんな御手洗が、ブータンでの奮闘ぶりをつづったブログを面白がった人物がいた。コピーライターの糸井重里(69)だ。この出会いが、御手洗に新たな転機をもたらすことになる。
糸井重里との出会い
「大きな地震があった」。東京の知人から、パソコンに短いメッセージをもらったのは、ブータン政府観光局のカフェテリアにいた時だった。2011年3月11日。世界に目を向けることが多かった御手洗だが、いま、大変な状況にあるのは日本だ。
任期の1年を終えて帰国。コンサルタントとして、ある自治体の復興にかかわった。その仕事が一段落したころ、ブータンでも会った糸井と話していて、唐突に言われた。「気仙沼で編み物の会社やりたいんだけどさ」
漁師の家族が無事を祈って編んできたフィッシャーマンズ・セーターは、アイルランドのアラン諸島が代名詞だが、気仙沼にもその伝統がある。編み物なら大きな投資をしなくても、比較的すぐに始められる。
とはいえ、御手洗には大きな決断だった。「震災で傷ついた人たちを巻き込み、失敗してまた傷つけるわけにはいかない」。だが、被災地でいやおうなく事業の立て直しを迫られている人を見て、勝算を案ずるのはやめた。知らない土地へ行き、地域の自立のために産業を育てるのは、これまでの仕事と大差はない。「ブータンの経験があったから心理的なハードルは低かった」
糸井は御手洗を「分からないことをそのままにせず、理解したいという気持ちがすごい」と評する。さらに「ぽん、と抜けてるところもあるので、周りの人を『こんな人だから』と大人にさせるんだな」とも。これも「強み」か。
気仙沼では水産加工品の会社を営む大家族のもと、長く下宿生活を送った。この家の斉藤和枝(56)にとって、御手洗はよき相談相手でもあった。震災で工場を失ったばかりで事業再建に奔走していた時のことだ。「思ったことをはっきり言うので付き合いやすい。現場で一つひとつをよく見て動く。大きな視点で物事を見る。この両方がある」という。「気仙沼だけでなく、たくさんの地方で問題を解決する種を、彼女は持っていると思う」
また新たな土地へ渡り、新しいことを始めるのか。そう尋ねると、御手洗はきっぱり答えた。「私が去ってもずっと栄えるようになるまで会社を育てなくてはいけない。会社にとって一番よい判断をするためには、個人の『この次』は考えるべきでない」
ただ、こうも付け加えた。 様々な事情で働きたくても働けない人たちがいる。「これは、被災地だけのものではない」
■Profile
- 1985 3人きょうだいの長女として東京都大田区に生まれる
- 2004 東京大学入学。勉学の傍ら、国際協力のボランティアなどにいそしむ
- 2008 東大経済学部を卒業し、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社
- 2010 ブータン政府の初代「首相フェロー」に着任
- 2011 東日本大震災から半年の9月にブータンから帰国
- 2012 気仙沼ニッティングのプロジェクトが始動。アイルランドのアラン諸島を視察
- 2013 株式会社気仙沼ニッティングを設立。初年度に黒字を達成
- 2014 気仙沼の港を見下ろす丘の上に店舗が完成
- 2016 サイモン・ミラーなど海外ブランドのデザイナーと、初のコラボ製品を発売
Memo
「金魚鉢」と洞察力…幼児教室で、先生が「ひっくり返った金魚鉢と、びっくりした男の子と、怒った顔のお母さん」を描いた絵を見せて「どういう状況か」を尋ねた。御手洗の答えは「金魚鉢をひっくり返したのが、この子かどうかは分からない。でもお母さんはそう思っている」。母の照子は「我が子ながら、すごい洞察力だとおかしくて」と振り返る。
ニット商品…セーターやカーディガンのデザインは編み物作家の三國万里子が手がける。土曜と日曜に開いている気仙沼の店舗のほか、各地で不定期に開く展示販売会、インターネットでも買える。詳しくはウェブサイト(http://www.knitting.co.jp/)で。