彼女は大学に行くこともできたかもしれない。だが、その代わりに5カ月かけ、5大陸の上空を3万2千マイル以上飛行した。
「私の名前はザラ・ラザフォード、ティーンエージャーです」。昨年8月、彼女はベルギーを飛び立つ前に、インターネットでそう語った。「単独飛行で世界を一周します」。最年少の女性による世界一周飛行を目指したのだ。
19歳のラザフォードは、コロンビアでは巨大な雲を避け、メキシコでは稲妻をかわした。アラスカでは、悪天候とビザ取得の遅れで、彼女の小型飛行機は数週間、地上待機を強いられた。
英国とベルギーの国籍を持つこの飛行士にとって、これらはすべて、凍てついたシベリアの荒涼地帯を横切る前の出来事だった。中国によってインド通過のルートがぐちゃぐちゃになる前の出来事だ。
遅延の重なりで、予定は2カ月以上も延びてしまった。それでも、彼女はやめなかった。1月20日、ベルギーの町コルトレイクに着陸し、単独での地球一周飛行を果たした最年少女性になった。サポーターたちが滑走路に並び、帰郷を喜んだ。
「もう毎日飛ぶ必要がなく、毎日飛ぼうとすることもないなんて、不思議な感じです」。着陸後の記者会見で、彼女はそう語った。「ようやく同じ場所にしばらくいられることになったのも、うれしいです」と付け加えた。
ラザフォードは、2017年に当時30歳だったアフガニスタン系米国人のシャエスタ・ワイズがつくった記録を破ったのだ。ラザフォードが1月20日に着陸する前、ワイズは19歳の子が記録を破るとは思っていなかったと話していた。「これで性別とか、若さは関係ないことがわかります。決意がすべてなのです」。(世界一周単独飛行の最年少者は、昨年7月に18歳で成し遂げた英国のトラビス・ラドロウだ)
■海から海へ
ラザフォードが昨年8月に大西洋を横断した時、雲のため、地上1500フィート(約450メートル)の低空を飛ばなければならなかった。全長22フィート(約6.7メートル)で2人乗りの彼女の飛行機は計器だけでの飛行が認められていないので、雲の中を飛べなかったのだ。
無線での通信が数時間途絶えた後、グリーンランドに着陸した際は、両親に2語のテキストメッセージを送った。「I'm alive(私は生きている)」と。母は趣味のパイロットで、父はプロのパイロットだ。
北米ではもっと楽に飛行できるだろうと思っていたというが、実際はそうではなかった。
フロリダでは、ハリケーンシーズンのただ中、激しい雷雨をよけながら操縦した。9月にシアトルに向かったときは、山火事の煙が北カリフォルニア上空でコックピットに入り込み、視界がくもって方向転換を余儀なくされた。
彼女は、陸上でも困難に直面した。
ノースカロライナ州で、郊外の飛行場に予定外の着陸をした。暗くなってきたからだった。そこはちっぽけな飛行場で、彼女が着陸した時は誰もいなかった。最寄りの都市のタクシー会社は迎えに来てくれないだろうから、ヒッチハイクをした。
アラスカのノームでは、ロシアのビザを更新するため、数日間待たねばならなかった。その後は悪天候で、さらに数週間足止めされた。
途中で出会った見知らぬ人の親切には感激したと言っている。アラスカで、新生児がいる家庭に招いてくれた男性もそうだった。
「私がその家を後にしたとき、その人の娘さんは生後5週間だったから、彼女の人生の半分以上の期間、そこに滞在していたことになります」
大学で電気工学かコンピューターサイエンスを勉強して宇宙飛行士になりたいというラザフォードは、他の女性飛行士たちから精神的な支援も得ていた。
フロリダに立ち寄った際には、ワイズが会いに来てくれ、逆境に立った時の対処の仕方を教示してくれた。また、カナダのニューファンドランド・ラブラドール州グース・ベイではカナダ軍大尉で捜索救助パイロットのエリン・プラット(34)が連帯のしるしとして、彼女が7年間いつも身に付けていたフライング・ウィング(鳥の翼型ペンダント)をくれた。
距離の長短を問わず、単発機を飛ばすのはパイロットにとって挑戦になる、とプラットは後日のインタビューに答えた。低い高度を飛んで世界一周飛行を成し遂げるのはとてつもなく勇気がいると、彼女は付け加えた。
■ツンドラ地帯から熱帯へ
ラザフォードは、悪天候を避けるためには9月下旬にはロシア北東部に達している必要があると8月に話していた。しかし、彼女が最終的にシベリアを越えたのは11月初旬で、当時、地上の気温はマイナス35度だった。
ある辺鄙(へんぴ)な地域を飛行した時、緊急着陸できるはずの飛行場(複数)を見たと言う。ところが、いずれも雪で覆われていた。
悪天候で再び数週間足止めされたロシアから、中国本土に入る計画だった。だが、中国が新型コロナウイルス対策で空域に入るのを禁じたため、彼女は韓国に向けて海を眼下に6時間以上も飛ばなければならなかった。
飛行中のある時点で、威圧的な雲が機体を北朝鮮へと押しやりそうになった。
「ロシアに引き返そうか?」と彼女は自問したと言う。「それとも北朝鮮の領空に侵入したら、軍とトラブルになるリスクを冒すか?」
結局は、狙い通り韓国に着陸できた。「神経がピリピリする経験でした」。ベルギーに戻った時の記者会見で、彼女はそう語った。
旅程は、フィリピンを襲った台風に関連する低気圧で、すぐにまた狂ってしまった。
ボルネオ島では、悪天候で数日地上に留め置かれ、いつ離陸すべきか難しい判断を迫られた。最後はこの熱帯の島を飛び越えたのだが、島の南端にある国内空港に想定外の着陸をした。劣悪な条件下で、そのままジャワ海を飛ぶよりは安全な賭けだった。飛行機にとってジャワ海は危険な場所として悪名高い。
ボルネオ上空の飛行について、ラザフォードに助言したマレーシアの退役した戦闘機パイロットで、中佐だったジョン・シャムは、困難な状況下における彼女の冷静さや謙虚さ、勘のよさに感銘を受けたと電話取材に答えた。「魅力的ですばらしい女の子だ」と彼は言っていた。
■ラストスパート
12月下旬にはシンガポールでタイヤがパンクしたため、日程に数日の遅れが出たが、その後、それをしのぐひどい目に遭った。南アジアの一部地域はスモッグのため大気の質が劣悪で、バングラデシュとインドの海岸沿いを予定通り安全に横切ることができなくなった。
このため、また迂回(うかい)する必要があり、インド洋の遠隔地を1000マイル近くも飛行しなければならなかった(飛行ルートがどう変わろうと、スポンサーと空港が今回の世界一周飛行の費用を負担した)。
「今回の飛行で、私が学んだことの一つは、誰にでも当てはまると思いますが、人にはその人が考えている以上の能力があるということです」。ラザフォードは12月下旬、インド洋上を飛んでスリランカに着陸した後、報道陣にそう語った。
この時点までは、飛行の遅れは許せたし、想定内のことではあった。インドのムンバイからアラビア海を越える長距離飛行後、強風のためドバイに着陸できなかった。年が変わった1月中旬、ヨーロッパをさっと横断する計画も、ギリシャに着陸してからの悪天候で遅れが出た。
「この先、私の人生が天候のようではないことを望みます」。彼女は1月、サウジアラビアからの電話でのインタビューに、そう話していた。
それでもなお、彼女は空を飛ぶことを楽しんでおり、彼女の飛行に発奮させられたという世界各地の若い女性たちと出会ったことで元気をもらってきた。
カナダ東部の捜索救助パイロット、プラットからもらったフライング・ウィングのペンダントはどうしたか? グース・ベイ以来ずっと、ラザフォードは上着の襟に付けている。
「幸運のしるしです」とラザフォード。「効果があったと思います」と話していた。(抄訳)
(Mike Ives)©2022 The New York Times
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